敬虔

もともと、キリスト教系の大学に通っていた。
そこに本格も嘘もないんだが、あの大学は実際本格的で、敷地の中心に新築のチャペルが擁してあった。中に足を踏み入れると、その足音の一つひとつがチャペル内によく反響する。学生の頃にはちゃんと気づかなかったが、その足音ですら反響音がなんと美しかったろう。たまたまそう綺麗に聞こえた、というより、どんな音からも美しい音色のみを摘み取ってから、室内に注ぎ返している印象だった。音響の意匠に凝ったのではないだろうか。

薄くて柔らかで上質で、いつでも少しひんやりとする聖書の頁をめくる音と、言葉を紡ぐように静かに語りかける牧師の声。主の祈りを捧げたあとの、分厚い音が重なり合って決して途切れない、永遠に重奏し合わんとするパイプオルガンの演奏。
学内礼拝に参加するたび、何か、言いようのない澄んだ空気を感じていた。

……と、そんな優等生なことを述べているが、実際はてんで礼拝に参加せず、サボってばかりだった。学内礼拝は3限と4限の間に毎日開催されていたのだが、これを休み時間と洒落込んで隣の学食で友達と喋り腐っていたのだ。けっきょく、4限の授業をサボった勢いで近くの喫茶に席を移したことの方が多く、満遍なく落単したなかでも4限の単位を落とすことは突出していたほど、礼拝には参加しなかった。数少ないまでも参加した日があったのは、授業の課題として最低何回か出ましょうね、との決まりがあったためだった。

とはいえ、
学内礼拝に行って、満たされずチャペルを出たことは一度もなかった。
あの大学で、もっと学内礼拝に参加すればよかった。


家の近所の教会には、大学卒業後も通っていた。
これも、もとは授業の課題の一環だった。
キリストの復活日の日曜に礼拝がある。
たいてい、午前10時半に始まる。

近所の教会は、新築だった大学とは打って変わって年季が入っていた。木の匂いと日曜の朝の温もりがやさしく包み込む。学内礼拝の時に感じたあの静謐で澄んだ空気が、不思議とここにも感じられた。

クリスチャンの方々は、みなさん優しく迎えてくれた。顔も覚えてくれた。受付の際にも「あら、来てくれたんですね!」と微笑んでくださった。若い人も時折数名参加していたが、年齢層はかなり高かった。授業でも知り教会の牧師さんからも伺っていたが、クリスチャンの高齢化と人口減少は進行しているそうだ。それもあってか、クリスチャンになるのかならないのか、そもそも毎回参加するのかしないのかも不明な奴にも優しくしてくれた。
しかし、徐々に足が遠のいてしまった。
数年経ったころ、牧師さんが代替わりしたことを、近くを通りがかって知った。


この頃、とてもよく思い出す。
聖書の頁をめくる音と、静かな語り口の牧師の声、重なり合うオルガン演奏。その時々に感じる清浄な空気……。

それが、よかったな、
いいな、と思っている。