勝手にひとりシュンとするのも政治かな

現政権への不満や不安、不信は高まるばかりではあるものの、それでもなお保守にもリベラルにもどうしても相容れなくて、そっちのほうが現政権より根本的に危うい気がする。

なにせとにもかくにも、彼らが叩いているのはコンテンツでなく生身の人間であることが欠落していることが怖い。その感覚こそ人として通じ合う領域なのに、現状、保守もリベラルも驚くほど取り扱わないのはなぜだろう。ここに気を払うこと抜きにして、いくら立派な主張を目にするたびに心の奥がズン、と重たいものが沈んでいく。

政治信条に反しているからキャンセルするとか、相容れない選挙結果に対して対立勢力を敵視するとかが政治的な振る舞いだな、とぜんぜん思わないけど、戦後民主主義はこれでメイン張っていたから今通じ合えない状況になっているんだろうか?

 

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自分にとって分からなかったり相容れない行動に進んだ一人ひとりの胸のうちにあったのであろう切実な想いが、むしろ自分が抱いた想いにかなり近しかったりして、と想像すると、なんとも言えない感動のような、たまらなく哀しいような気持ちになる。

このすれ違いが私とあなたのすべてのすれ違いではないが、部分的に相容れないことが哀しくもあり、でも部分的に重なっているのが嬉しくもあるからだろうか?政治って「人と人」という一対のジレンマみたいなことなんだろうか?みたいなことか。そうだよな。

 

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以前、サウナがとても素晴らしい銭湯に行った。支持政党が極右の外国人排外主義に染まった政党だった。ポスターや政党の広報紙が銭湯内に配置されており、銭湯の看板自体がその政党をオマージュしたオレンジ基調のものだったのだ。でもあまりに素晴らしい銭湯で、とてもモヤモヤした気持ちで過ごしたが、番台さんも愛想よくいい人で、とても清潔でドライヤーからグッズから飲み物からサウナのレベルの高さから、とにかくお客想いの銭湯で……その政党はどうしても自分の信条とは相容れないものであったため、はじめはもう行くことはできないな……と思ったが、いやいや、違うだろ、また行く!!と思い直した。

 

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なんだかつくづく、自分たちの信条のために叩いたり守ったりすることと、自分のメンツのために身内をないがしろにして振り回すことは地続きだし、時に対立する意見にも共感する部分を見出すことは、たとえ出世から外れようとも家族との時間を大切にすることも地続きだなと思う。

 

またあの銭湯に行きたい。

そんな世代でありたい(キレートレモンと戦争と蚊)

キレートレモンを毎日飲んでいる。

かれこれ1年半は飲み続けている。肌がきれいになった気がするし、風邪をひきにくくなった気がする。キレートレモンのラベルに表示されている原材料名項目のトップにはレモンが記載されているのだが(むしろそうでなかったら怖い)、その生産地はイスラエルで、「あ、イスラエルで生産された商品を買って飲んでるんだ」と、「今、イスラエル産を飲んでるんだ」と、毎度飲むたびに、思う。でも、レモンには罪がない。産まれた土地ですくすく育ったレモンにまったく罪はないじゃないか。それが安くて美味しいから、回り回ってキレートレモンを選んで買ってるんだ。レモンに罪はない。

 

 

気分が少し落ちたときに、YouTubeのおすすめに「第二次世界大戦のワルシャワ陥落直前のポーランド国営ラジオの最後の放送」がたまたま推されてきた。なんだ。なぜだ。どうした。マアいったん見てみるか。

ラジオ放送は、目に見えて焦っている、いや忍び寄る戦火に追い立てられている緊迫感を帯びたアナウンサーの声で始まる。「ハロ、ハロ、聞こえますか」「これが最後のメッセージです」「今日ドイツ軍がワルシャワに侵攻してきました」「ポーランド未だ滅びず、ポーランド万歳!」その後にあまりに駆け足でポーランド国歌が流されて最後の放送が終わる。全編燃ゆる昂奮で使命を果たすラジオ音源には、国歌と人民が今まさに銃口を突きつけられている息遣いを間接的に感じた。聴いた当時はなぜか、心に奮い立つものがあった。どんな因果関係か分からないが、なんとかやっていこう、という思いになった。

追体験する世代でありたい。突きつけられた銃口で視界が途絶える世代にはなりたくない。第二次世界大戦、為政者が勝手な都合で始めた国ぐるみのその殺人行為に、名も知らぬ人民の命があまりに粗雑に賭けられた。圧倒的な理不尽さを前にして一人ひとりの人生はひねり潰されていった。そこで生み出された一人ひとりのわずかな希望が戦後の人間を救うこともあったのだが、手のひらで打たれて黒ずんで潰れる蚊の命と同じような人命の呆気なさが、今はずっと胸に迫る。

 

 

今日は何かの前夜になるのだろうか。何かの前夜になってほしい。もうほら明日の仕事もぜんぶほっぽらかして、ほっぽらかしてサテどうしよう?先週は咽頭炎でヘロヘロのありさま、体力不足を痛感する1週間だった。肌もなんかヘタッてきてる気がする。明日のために明日もキレートレモンは飲む。部屋に蚊が侵入してきた。自分の周りをウロウロと飛んで回って掻き回す。しばらく格闘の末、脛に留まったところをうまいことペチンと叩くことに成功。手のひらを見ると、まだ血は吸われておらず、ただただ黒いシミだけがあった。

寝ても覚めても気力は大事

気力は大事なものだと思う。


自身の気力がふとガス欠を起こすとき、瞬く間に目の前に広がるありとあらゆる事象(自分自身も含め)に興味がスーッと霧消していく。この世の森羅万象有象無象の一切は、ほんと興味ないもの、もっと言うと「ないのと一緒」のものに変わってしまう。興味の磁力が消えかけていることを実感する、その時の居心地の悪さったらないな。この世はあってないようなもんだとわかるようなもので。この世があってもなくてもどちらでもよいのだと、遂に二度寝三度寝も効かなくなって目を覚ますほかなくなってしまったかのごとく。「無気力」は覆ってくれていた元も子もない現実を、これでもかと目いっぱいに知らしめてくるのだ。逆に言うと、世の中のありとあらゆるものは、気力という眼で光彩を捉えピントを合わせており、ミクロもマクロもそして自分自身も、気力の有無に連動して在ったり消えたりする、ともいえるか。


つくづく、ことごとく、やンなるくらい、
気力、つまり「知りたい」と思うこと自体が愛情の発露であって、愛情それ自体が熱源であることを、結局、思う。加えて、この世にあるものを「在るまま」に繋ぎ止めてくれるものは、色を付けてくれているのは、やっぱり「気力」とか「知りたい」欲求とか「愛情」と名のつくエネルギーであることも。


目の前に広がるものに興味を持てないときは、自ら持ち寄り差し出せるエネルギーが不足している状態なんだろうな。
そして、いつでも再生できるほど、この類のエネルギーは枯渇しないようにできているのだろう。いろんな形を変え手を変え品を変え、ちらほらとこの世界に色を付けてくれているはず。
病めるときも健やかなるときも、何とかなるかもな。


と、長いことぐるっと1周して元の旅団に戻ってきた落ちこぼれ一兵卒みたいなことを考えていた。
寝よう。

雨粒が石を穿つころ

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都市の暮らしに慣れていると、ふと訪れた大自然の圧倒的なパワーと経年の贅沢さ、豊かさにまったく打ちひしがれる。自分が生きてきた年月はもちろんのこと、その親の代の更に親の、その更の奥の奥の奥……一本の糸を過去へ過去へ手繰り寄せる作業を一向に繰り返そうとも、青々と茂る緑、渓谷に転がる巨石、朽ちた樹の幹、山からのわずかな湧水がいつからか急流を生み、やがて母なる海へと注ぐにいたるダイナミックなその俯瞰図……そのどれを取っても、及ばない。それらの一生を共にした者はひとりとして存在しない。われわれは、ただ一瞬の、まばたき一つの瞬間の生を立ち会ったに過ぎないのだ。

 

 

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仕事帰りの電車は混雑していた。

優先席の前のほか立つところがなく、つり革に捕まり立っていた。とても疲れていて、優先席でもいいから座れたらよかったが、その隙はなく、ここから先もっと人が乗り込んでくる……覚悟して、耐え忍ぶことにした。

 

と、その時、

「どうぞ」

と声が。目を開けると、目の前に若い女性が立ち上がっていた。

ん?俺に?

何があったか分からないうち、笑顔でサッと脇に移った。

 

えっ?

席、譲ってくれた??

「えっ、いやいや、大丈夫ですよ」

と頭を振るも、もうそこは決まったようなもので、ペコペコと頭を下げ座席に身を預ける。顔を上げると、女性はもうそこにはおらず、数席離れた場所に移って、スマホ画面を食い入るように見つめていた。

 

席を譲られたのは生まれて初めてだ。

ヘルプマークは付けていないし、ハッキリと譲られる立場と分かるものはなにもないはず……。

なぜ席を譲ってくれたんだろう。

それほど参ってる表情していたのかな。

でもたしかに、堪えるように目を閉じて口は真一文字、目を開けたかと思えば窓に映る自分の顔はいい具合に死んでいた。仕上がりは上々だった。

でもしかしそれは、けっこういつもそんな感じだ。

そして、これが理由で車内で配慮されたことは一度もなかった。

あの人、自分のどんなところで「気づいた」んだろうか。

でもやっぱり、本当に助かったし、なんと有り難いことだろう……。

 

下車するタイミングで、女性に感謝を伝えた。一瞬口角を上げ、いえいえ、と。すぐに真顔に戻りスマホの画面に目を伏せた。

 

下車して、エスカレーターを上っているうち、もしかしたらあの人も、自分と似たような要素があったのかもしれないな、と思った。

でも、そんな邪推は野暮だ。人の善意に助けられたことが全てなのだ。

 

 

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大阪が「都市の生活」なら東京はつくづく豚小屋だ。

朝も夕もラッシュ時は戦闘モードだ。もみくちゃの大混雑をいいことに、タックルなり押し出しなり皆やりたい放題だ。

たとえば昨晩の日常。

ギュウギュウの山手線。新宿に到着。開くドアの前にピクリともせず仁王立ちでスマホを睨み続ける女を、数名がタックルしホームへと押し出そうとする。女も負けじとドアの横サイドに回り込まんと水流に逆らうも、サイドはサイドで下車する人の群れである、ゴミのような抵抗と苦虫を噛み潰したようなツラもろとも、ブルドーザーのごとくホームへと押し出されていった。

 

そうそう、これよ、これが東京だわ。怒りに交じって少し、しめた、少し殺せる、と思ってるその感じ。

 

 

「少しやっちまいたい」関連でいうと、歩きスマホをする奴の多いこと多いこと。

奴らはとにかく歩みが遅い。ひたすらに、のっそりゆっくり。通路も、階段の上り下りも、後ろがいかに詰まっていようとお構いなし。自分の思う通りにゆっくり歩いて、自分の意思の通りにきわめてまっすぐ歩いてると思えば、思わぬところで急に曲がる。当然、周囲はぶつからぬよう歩きスマホを避けていく。本人は知ってか知らずか、変わらずスマホから画面を離さず進んでいく。

この自己中心的な思考はどこから来るのだろう。なんにも感じないのだろうか?良心とか、迷惑とか、そういう発想はないのだろうか?「歩くスマホ」たちは現状の自身になんとも思わないのだろうか。気づきもしないのだろうか。いや、虚しいからこそのめり込むのかもしれない。気づいているが、俯瞰図を描写するにはあまりにも手に負えなくなって、ひとまず逃げ込むゴミ箱がスマホなのかもしれない。

 

すべて自分の意志で選び取ったものだと認識しているものは実のところ社会的に「選ばされた」ものである、という解釈は社会学でよく言われる物差しだ。その視点でいうと、もし自分の興味の範囲や、好みや価値観の判定基準がすべてかれらのスマホ画面の内に閉じ込められていて、レコメンドされるがままに選択したものの蓄積であるならば、もはやかれらは……いや、スマホを「活用」しているわれわれは、もはやスマホから無数に伸びる電極が全身に埋め込まれたデータベース源に過ぎないのかもしれない。

いや、そもそも、こんななんてことない人間から、何を抜き取る情報があるだろうか?

怒りは金になりますね?

 

 

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なんの抵抗かはわからんが、なにかの抵抗のわかりやすいものとして、会社では、挨拶を欠かさないようにしている。

出社や退勤のときフリーアドレスの向かいの社員に挨拶をする。おはようございます、とか、お先に失礼します、とか。そうすると、だいたいの人が返してくれる。廊下ですれ違う際にも、お疲れ様です、と会釈する。だいたいの人は、会釈を返してくれる。

勤め先は入れ替わりが激しく、毎月のように入社と退社とが交差する。昨日までの当たり前が明日も通るとは限らず、その都度新しいルールや人事に順応することが求められている。オフィスには、知ってる人より知らない人のほうが多い。知らない人が知らないままいなくなっていることも気づかないだろう。次から次へと新しい業務が舞い込む。とにかく対応し、書類を作成していく。

挨拶だけは昨日も今日も明日も継続しておこう、と決めている。知らない人たちに向けて挨拶をするのは怖さがある。当然、快く思う人も面倒に思う人もいるだろう。こちらの体調によってはもうやめたくなる時もあるし、まあ今日はいいかな、と頭をよぎることもたくさんある。

しかし、いいことはたくさんある。

まず、声を掛けることで、相手は少しだけ「人」になる。朝のターミナルの群衆のうち落とし物をした人に声を掛けたとき、ハッキリと生きた人間が目を覚まして応答してくれたような感覚と同じものがある。

それから、相手も自分を覚えてくれる。少なくとも、「知らない社員」から「人」に、「人」から「〇〇君」に、少しずつ人間の輪郭と温度を感じ取ってくれている、ような気がする。

ぜんぶ気のせいかもしれない。

でも、気のせいがこの世だと思えば、そうだ。

幸い、かろうじて挨拶は今日まで続けている。

 

 

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夏の冷えた風が吹いた。

買いたての帽子が浮きかける。離れぬよう右手で押さえる。

少しの間を置いて、遠く後ろの雑木林が黒くざわめくのを背中で受け止めた。

追って雨の匂いがして、見上げればまだ月がある。

 

 

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あの政党に票を投じるのは、どんな人たちなのだろう。もし、歩きスマホたちに仮に選挙に行く発想がまだ残っているならば、いいカモとなるのだろう。それでいて、あの政党は架空の憎悪を片っ端から呑み込み膨張するようにして、議席を得ていくだろう。そして遂には障害者雇用の俺から食い扶持を奪って大団円。風が吹いて誰が儲かるってんだ。

悪魔との契約は腹を決めるまでもなく、スマホ画面の世界を凝視しながらのその一歩で交わされ、二歩目で膨張され、三歩目で遂行される。かのナチス・ドイツホロコースト等のジェノサイド施策であればあるほど、細かな分業制を敷いたらしい。たとえば、人員の報告、貨車の数、トラックの担当決め、薪の確保……誰もが「それだけの業務」だけを反復していれば、この小川がいったいどこに注がれゆくのか想像するのが面倒になる。隣の部署が何をしていようが、この業務がいったい何を意味しているのか、我々の業務をつなぎ合わせると、何が達成するのか──。俯瞰図を描こうとすればするほど、その工数に対する見返りのなさを想像し、やめる。しかし着実に「業務」は遂行される。進捗は良好、つつがなく進む。

 

この街には人間があった。かれらを滞りなく、かの地へ輸送する。かの地にてラベリングを施す。ラベリングごとの小屋へ送る。小屋の飯は白湯か粥のような粗末なものとし、囚人たちに割り当てる業務をつくり、運用させる。その傍らで、煙突から煙が上る。果てしのない鼠色の空に、白い煙が上る。昨日もそう、また今日も、明日もそう、きっと同じことだろう。

煙が上る。遠く上る。鼠色の空に同化して消えていく。この空の東あたりには、故郷の街があるはずだ。われわれはいずれ煙となって、空っぽになった街のある無人の朝をやさしく包みこむだろう。これを希望として、今日も鍬を持ち、スコップで凍った土を穿つ。

 

 

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応援しているチームの野球中継がやっていた。

首位に立ち向かう一生懸命の小兵たち、劣勢ギリギリで逆転し、そのままゲームセットまで逃げ切った。やった!なんとか守りきった。みんなえらい、ありがとう。

喜びも束の間、ヒーローインタビューの時間だ。今日は打者で二人呼ばれた。

一人目。簡易的な小上がりのステージに呼ばれた期待の若手は、登壇の時点から目が赤くなっていた。

たしかに今日は大事な一戦だった。

首位相手の試合でもあるが、ここで負けるとズルズル落ちていってしまうかもしれない……そんな予感を漂わせていたチーム状態でもあった。

だからこそ、彼は万感の想いを抱いていたのかもしれない……。

しかしながら、受け応えがどうも、力がない。こう、つかみどころのないというか、心ここにあらずな感がある。時折、声の詰まる瞬間もあるが、努めて平静を装っている。

 

どうしたんだろう。

「最後に、スタンドで応援してくれたファンの方々に、一言、お願いします!」

アナウンサーが威勢良くパスを送る。が、彼はまた声に詰まり、遂には真っ赤な目から涙が溢れ出す……。

「実は……私事ですが、飼っていた犬が昨晩事故で亡くなりまして……」

「まだ十ヶ月にも満たない命なのに、この世を去ってしまって……」

「……でも、きっと……犬の名前エルモっていうんですけど、エルモは僕の傍で一緒に戦ってくれていたと思って、今はもうこの世にいないエルモに勝利を届けられたのは、すごくよかったと思います」

涙声に大粒の涙で話す若手のホープに、観客から「頑張れー!」「見守ってるぞー!」「エルモー!」と、様々に声がかかる。

彼の声がもはやたどたどしくなってしまいながらも話を続ける。

「命があることは、当たり前なことじゃないんだって思って、命に感謝しながら……これからも生きていきたいと思います。……応援、よろしくお願いします…!」

 

もともと応援していた選手だが、それを差し引いたとしても、こんな想いになったヒーローインタビューはなかった。

なぜだろう、これほどに哀しみが前面にあるのに、たとえたどたどしくも自身の言葉で伝えようとする彼の実直で素直な姿勢と、その祈りに似た優しさにはどうして心の霧を一気に清涼させる何かがあって、強く揺さぶられてしまう。

 

もうひとりのインタビューは申し訳なくも気が付いたら終わっていて、グラウンドを一周しファンに手を振る二人の姿があった。もうひとりのヒーローが、愛犬を亡くした選手の肩に触れ、俯きがちな彼を優しく励ましていた。

 

 

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世話になっておいて「豚小屋」と決めてかかる恩知らず、首都を脱出。……なんてずいぶん格好つけたが、その実ただの旅行だ。それも、水曜夜出発することで有給休暇を二に節約することに成功した四泊五日のせせこましい旅程だ。

破天荒なんて自分に無理無理、かといって慎ましいかと言われればガチャガチャしていて向こう見ずな三十代で、十八歳ほどのまだまだ子ども、のまま冷凍保存されてここまできた気がする。

まずは日本に現存する唯一にしておそらく最後の定期夜行列車、サンライズ出雲に乗って、西へ向かう。人生二度目のサンライズ。目指すは広島。だがサンライズは岡山の西隣、倉敷から進行を北へ向け山陰に向かう。倉敷までの切符を買った。ギリギリまで乗ってやるぞ。

夜に包まれた東京駅に、巨体がのっそり入線する。その姿はクジラか、いや、シーラカンスか、いや………やっぱり君は唯一無二のサンライズ号だ。「ブルートレイン」時代には斬新な、明け方のスモーキーな朝陽の気配をした飴色の車体が怪しくホームを占領する。ところどころで修復の跡。同期のカシオペアは今年引退。

君にまた会えるのを楽しみに、今日まで仕事を頑張ったよ。一ヶ月前に目黒駅のみどりの窓口で発券して、毎日眺めて目をキラキラさせていたよ。

そんな童心気分の俺の後ろで、本物の子どもの泣いている声がした。泣いている声というか、ギャン泣きだ。しかも、そのセリフがすごい。

「いやだぁ、いやだー!サンライズいやだ、のりたくないー!!サンライズこわいーー」

嘘だろ!?夜には東京の夜景が、朝には田園の朝が窓に広がる愛の化身サンライズだぞ??


そこには、まるでお化け屋敷と同列扱いで怯えて大粒の涙を流している小さな女の子が……。

びっくりしていると、隣にいたお母さんが事情を説明してくれた。

物心ついてはじめて乗ったサンライズが、途中でボヤ騒ぎがあって関ヶ原のあたりで運転打ち切りになってしまったらしい。たしかに何週間か前にモーターから火が出て止まった、とのニュースが、「そろそろ寿命か……」との鉄道ファンの嘆きのツイートとともに駆け巡っていた。その列車にこの子は乗ってしまったらしい。

それは、怖かったことだろう。思わず声をかけた。

「大丈夫だよ、今回は絶対ちゃんと走ってくれるよ」

根拠はない。根拠ゼロというかマイナスで、モーターが焼けるという特殊な事情を抜きにしても、先の路線が人身事故で止まったり、大雨にやられたり、倒木に見舞われたりしたら、たとえそれが山陰起こったことでも、熱海や静岡で打ち切りになることはよくあるのだ。むしろ通常の通勤ダイヤに支障を来さぬよう、サンライズは優先的に取りやめてしまうのだ。

女の子は大粒の涙を零し続けて泣いている。そら説得力ないよね。お母さんも「そうそう、大丈夫大丈夫、こわくないよ」と宥めるも、一分の一でそんな出来事に見舞われたら覆すことなんてできないだろう……。

ドアが開く。自分の部屋に向かう。二階建てで、上下階には狭い階段を上る。ほとんどの乗客は大荷物で、重たいキャリーケースを引きずってせっせと下りていく。製造時の時代背景的にまだバリアフリー思想が古く、その点でもサンライズは劣勢に立たされている。母娘は隣の部屋に入っていった。

お母さんは子どもと一緒に持って行くにはあまりに大荷物で、いったん、女の子を部屋に置いてまたホームへ戻っていく。女の子の大泣きが聞こえてくる。

居ても立ってもいられず、隣へ行った。

「大丈夫大丈夫、ベッドもあって、窓も広くて、とっても素敵な旅になるよ」

女の子はまだまだフル出力で泣いている。仕方ないとはいえ、忌まわしき巨大なモンスター・サンライズの車内でおさな子ひとりで待っているのは心細いだろう。どうしよう……なるべく同じ目線になろう、としゃがんだところ、女の子の提げているカバンに目が留まる。

サンリオのキャラクターだ。キティちゃんもいる。シナモロールも、ポチャッコも、けろけろけろっぴもタキシードサムもいる。オールスター勢ぞろいだ。

これだ。

「あっ、キティちゃんたちだ!!かわいい〜〜みんないるじゃん!!」

一瞬、女の子の目がバッグに行く。続け!

「君はどのキャラクターが好きなの?」

しゃくりあげながらも、指はしっかりとキティちゃんを指さす。

「キティちゃんなんだ〜〜、じゃあ、キティちゃんと一緒に旅できるんだね、よかったね!」

しゃくりあげながらも、コクリと頷く。いけるいける!!

「きっとキティちゃんは優しくて強いから、ちゃんと君を守ってくれるよ!!安全に終点まで一緒にいてくれるよ、大丈夫!!」

女の子、コクリコクリと何度も頷く。涙の勢いも落ち着いてきた……!

そんなタイミングで、身体と同じ大きさはありそうな荷物を引っ提げお母さんがカムバック!よかったよかった、ここでバトンタッチ。

 

お母さんから、「本当にありがとうございました」と、ゴディバのチョコクッキーを2個、頂いた。

自室に戻り荷物を整え、外からサンライズを撮ろうとホームに出ると、隣室の窓にくっついて外の様子に目をキラキラさせているあの女の子の姿があった。

 

旅、始まったばかりだけど、旅の目的が果たされたみたいな気持ちだ。

ゴディバのチョコクッキーを食べながら、動き出したサンライズの車窓をゆっくり眺めることにした。

帰宅ラッシュに沸く人波を横に、まだ煌々と灯るオフィスビル群をすり抜けて、東京を抜け出す。

まどろみのひととき。

この瞬間を待ってたんだ。

 

 

その瞬間、急ブレーキが。

おおお、と前につんのめりながら、停止したサンライズは十分ほどそのまま。

「車内で非常停止ボタンが押されたため、いったん運行を停止しております」

ええええ!まだ多摩川も渡ってないのですが!!

キティお前仕事しろ!!!

思わず苦笑い。女の子の泣き声は聞こえてこなかったので、たぶん大丈夫かな…??

 

……どうやら誤作動だったようで、非常停止騒ぎはこの一件のみで、その後は無事に走り抜けてくれた。

ちゃんと、「故障ではございませんので、ご安心ください」と添えて。

 

 

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テトラポットが意外と背が高く、地面のゴミが遥か下に見えた。足を踏み外したら、終わりだな。軽はずみに来た海辺は自分のほか誰もない。テトラポットから砂浜に着地する。砂浜……か?これ、ほとんど石じゃん。どれも丸くツルツルの小石で、歩くたびに足のバランスをゴツゴツに乱していく。いい感じのコンクリートの出っ張りに腰を下ろして、リュックを横に置く。真っ黒なリュックは、遮るもののない灼熱の太陽を当然にマッハで受け止める。日陰はないか!?日陰はないな!仕方がないので、生温かいリュックを赤子のように抱き抱える。

 

海を見るたびに、さざなみはこんなに大きな音なんだ、と驚く。想像上の波間はもっと心地よく、ちょうど小豆を箱の中で右に左に傾ける程度の邪魔のなさでいるのだが、現実はまったく騒々しい。けれどもなぜだか圧倒的な説得力があって、この騒々しさが不思議と心を落ち着かせる。波が引いては満ちる。満ちてはサーと引き、波を手繰りよせて、また押し寄せる。

今ここに漂着した波はどこから来たのか、源流はどの川の水か、どの雲から降り出した雨で、どの山の森を潤したか。想像しようにも不可能だし、月日を考えても、自分の人生など砂の一粒にも及ばないほど悠久の時を経たのだろう。その悠久の一瞬が、今この眼前に広がっている。
波は息つく暇なく、次から次へと波が押し寄せる。

 

 

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『父の詫び状』向田邦子(感想)

「記憶をそこに置いておく」温度感で続く文章が結ばれるとき、ある大きな記憶に置き換わる。1本の花を静かな手つきで選びとり、ひとつの花束に結ばれたときに、わあ、と美しさに嘆息する。あくまで静かに置いておける文才がたまらなく職人気質で、そこには「いいものを書いてやろう」とか「こんなメッセージを生み出そう」という野心を感じさせない。だからこそ、胸の奥底にある淋しさや後ろ暗さ、それでいて偶発的な哀しみを一層想うことになる。やり場がないが営みはそんなもの、取り出して独り味わう記憶。
人の死を語る折の淡々としたさまは、令和に生きている自分にはなかなか想像できないが、きっと戦前〜戦後にあって死と隣り合わせの時代だからこその姿勢なのかもしれない。でも、そこに本質があるように思う。人の死を刺激的に、悲観的に、ドラマチックに、英雄譚的に語ることはとても容易い弔い方だが、静かに語ることに、他者が介入できる限度(身の程)を知った姿勢に思え、背筋が伸びる。
『ねずみ花火』という一編が好きで、何度も読み返す。これはある日常に隣り合った者たちの死にまつわる話でありながら、すぐに読み終えてしまう。描写はあまりに呆気ないためにより一層死者を想う。どんな人にも死は訪れる。それも、予想だにしなかった展開、通底音がぷつっと途切れるようにして消えていく。火花が散った先を知らないまま明日がまた始まる。

一方、
エッセイを読んでいくに従って、少しずつ向田邦子の「父」の存在に違和感が増していく。時代がそうだったとはいえ、あまりに傍若無人で、あまりに亭主関白を突き詰めており、個人的にも相容れなかった。それが読み終わるまでにも続いており、読んでいる間から「父の話が少なければいいな」とさえ願うこともあった。
しかし、『ねずみ花火』を何度か読み直すに従い、少しずつその想いに変化が生まれてくる。自身と重ね合わすある少年との交流がわずか数行にて語られるが、その描写を噛み締めるごとに、父がどのような苦しい境遇を味わいながら乗り越え家庭を築いてきたか、そして、今もなお苦しみを胸の奥に仕舞いながら少年と遊んだ吹上浜のひとときをどう想っていたのか……。
ともすれば読み手の私自身の不愉快な記憶をも引き出されかねなかった向田邦子の父の存在に、少しずつ、湿っぽい想いに駆られるようになる。読み返すたびに少しずつ、言いようのなく俯いていく。

令和の世に生きている自分には到底、想像もつかない壮絶な理不尽、不条理に満ちていた時代だった。……と、分かったような言葉で総括することは容易で、令和の世にはそれを咎められることはない。でも、それは、死者を想う生者という「他者」の身の丈とはわけが違う。本が反射板となり、自身の記憶と照射され、胸の内に余白が生じる……。この作品を読んでよかったと思う。
巻末には、沢木耕太郎の解説が収録されている。これが、とてもよく。本書にとって、透き通るようなみずみずしい存在でした。

記憶と視た不在

記憶と視た不在が、本当に消えてしまう瞬間に想いを馳せる。


胸のうちに残る「記憶」が本当に失くなる瞬間を見届けることは、自分の死を見届けるのと同じように不可能だ。しかし、記憶が死よりも心許なく哀しいのは、誰ひとりとして自分の記憶を鮮明に証言できる者がいないことだ。

たとえば、友達ふたりとカラオケに行ったある日のこと。ひとりの友達は外れ調子に陽気に歌い、もうひとりは自信なさげに歌声を披露して、俺はさも得意気に歌い上げていた。フリータイムの後半は、内面の打ち明け大会となった。いい頃合いでまた歌って解散した。

この日歌ったメンバーは、自分を除いて、もうこの世にはいない。

だとしたら、もし今後自分が死を迎えてしまえば、もう、あの日のカラオケボックスの時間を過ごしたことすら、誰にとっても存在しない記憶となってしまう。もちろん、その日のレシートとか、監視カメラに映った3人組とか、そういうテクノロジーによるアーカイブの話ではない。3人で過ごしたあの時間を生身で覚える当事者がこの世から去った瞬間に、それ自体も消え去って、なかったことと同然となる。

そんなの当然のことだ。しかし、そうだ、とも言い切れない、言い切るには人生が惜しい思いがある。あまりにも呆気ない現実じゃないか。


自分が死にようと、せめて記憶だけ生き続けることはできないだろうか。
いや、そもそも、不在(それは身体や心の喪失、死を含む)とは「消えて無くなる」ものと認識されるが、それは確かにそうであるが、果たしてそうであろうか?
……という、「いないのに、いるような想い(もしくは、いるのに、いないような想い)」への問いが事あるごとに現れる。


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思えば、
たしかにこの世は不在だらけで、たったひとり終始隣にいる者といえば、自身の記憶だ。当時友人が励ましてくれた言葉や、楽しかった歓談のひとときや、あの旅や出会いの日は、既にこの世から霧消しているものの、「記憶」という機能はまるで生存維持のように、今なおここに在る気にさせる。

かつ、
不在が「在る」ことによって、時として心に働きかける事がある。
夕暮れに反射する川面の鈍い光に、
暗闇の植栽の深い緑の怪しさに、
郊外のショッピングセンターのしみるような照明に、
風塵の巻き上がりが空中で霧散する瞬間に、

ふと、
今はもういない人のことを想起させることもあれば、
当時、同じような心境で眺めていた過去が反芻される。


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なんだかどうも、
「今はもういない人」と記憶の中で交信するのは、「アイツは心のなかで生きている」の類とは一線を画しているように思えてならない。
その「いない」が仮に死別であるとして、それは圧倒的なこの世の「不在」だ。「いる」といえるのは、自身と相手との相互発信によってみなされるとすれば、もうそれは「アイツ」ではなく「記憶」と交信しているのではないか。


不在が在る。
不在を想う。


あまりにも頼りないものに縋りながらこの世を生きている。この世がなんなのかすら、生きては死ぬとは何かすら、分かりようのないくせに。
もしも、この世とは自分の視界に映るもので構成されていて、息を引き取った瞬間にこの世なるものがもろとも消失する、なんてたとえ話をふっかけられたとして、否定するすべすら持ち合わせていないというのに。


記憶と不在を視る瞬間のことを、自分が持ちうる手段を使ってできるだけ残していければ、少しは足しになるかなと思う。なんの足しにかはよく分からない。

銭湯に行きました:鳩の湯(東京都国立市)

人は少ないに越したことないのです。

人の多い場所はストレスがたっぷりです。

外は冷たい風がヒュウヒュウ吹いています。

身体が芯から冷えていくのがわかります。

 

そんな日は、銭湯に行こう!

不思議なもので、家で浸かる風呂と温度差はそこまで違いはないはずなのに、広い湯船にチャポンと浸かると、身体がポカポカ、心ホクホクになるものです。お湯に浸かって全身に温もりが浸透していくあの感覚は、幸せそのものです。幸せは無意識下に流れていて、掘らねば表出しないものなのかもしれません。

とか言いながらも、ここ最近は風邪を引いたりなんだりでしばらく遠ざかっていた銭湯通い。だんだん体調上向いてきたので、行ってきました。

 

中央線国立駅に降り立って、駅前に出ると旧駅舎には何やら人だかりが。多くの集まる視線の先には、ピアノに相対する姿。クリスマスの演奏会でしょうか。柔らかな日差しに包まれた、穏やかな光景です。道をテクテク歩いていくと、信用金庫かのスペースに抽選会が開かれていました。クリスマスに近い日曜日は心なしか、ほんの少し華やいでいますね。都心の闇鍋みたいな状況では情報と感情の乱反射の流れ弾に撃たれて絶命するのが常ですが、さすがに住宅街の、それもだいぶ落ち着いた風情ある国立まで逃げ込めば、家族連れやマダムたちが穏やかにご歓談の昼下がり。この選択はよかったかもしれない。

しばし歩いていくと、見えてきました、どこか地中海の島を思わせる青い看板に、かわいらしい鳩のイラスト。


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鳩の湯さん。国立市唯一の銭湯です。以前訪れた際に、そのお湯の心地よさと心づくしの空間づくりにすっかり魅了され、のこのこと再訪です。

エントランスのテレビでは、M-1グランプリの敗者復活戦が放送中。そうか、そんな頃合いか。あっという間の1年に気の遠くなる想いを感じながら、のれんをくぐり脱衣所へ。ぱっと見、先客は多い?でも、日曜日だしな。小さな子どもを連れたパパと、おひとり様が多いかな。

さっそく、浴室へ。

最初に目に飛び込んでくるのは、銭湯絵!それも、無数のタイルで描写された富士の峰。なんとも美しい……。この美しさをなんと表現しましょうか。絵筆で描くものとはまた奥行きの成分が異なるものです。一言でいえば「高精細なドット絵」でしょうか。

わかんねえ。

わかんねえですよね。

ただ、山の峰を色づく青の濃淡と、松原を添えた湖にはヨットの帆が太陽に輝いているさまを細かなタイルで見せてくれると、まるで曖昧だった心象風景を鮮やかに映し出したかのようで、胸に温かなもので満ちていく想いがしました。ひょっとすると、絵筆で描いたものより絵の先にある心の内のものを呼び起こすのかもしれません。

緑の薬湯はちょうどいい温度感。40℃に届くかどうかの優しさです。軟水だから、肌の当たり具合がとても心地良い。隣のシルキー風呂はまるでミルクを注いだかのような甘い白さです。入ります。おっ、こっちは少し熱め。ああ〜熱い風呂大好き。シルキー風呂大好き。よって至高です。気持ちがいい〜。お湯の柔らかさは鳩の湯ピカイチです。

サウナにも入ります。今日はサウナで汗も流したかった。たっくさん汗かきましょう。入室すると、ハーブの香りがほのかに香り、ストーブの横ではポコポコ……ポコポコ……と水が沸騰する音も癒されます。ふう…と腰掛け、無心でポコポコ佇みます。この時間が好きです。起きているあいだ何かしら考えている性格がいちばん空っぽでいられるひとときは、この瞬間かもしれません。ジリジリと熱さが身体に迫るのを、伝う汗が全身を守ってくれます。気持ちいい……。

さて、サウナ室から出て、水風呂へ。あああ、気持ちいい……!!けっこう冷たいだろうに、肌の当たりがいいばっかりにいつまでも滞在できてしまいます。身体中の重力を水風呂にお預けしてしばし放心……。ザッと上がると、さっと湯がいたタコのように見事な真っ赤な身体。下ごしらえは完了です。外気浴しましょう。

愛しのシルキー風呂の横、引き戸を開けるとたいへん静謐な空間が。四畳半より小さな空間には、日本庭園になっています。淡い橙色の照明が石塔を灯し、白い壁には石塔と枯れ枝の影を映し出します。日本画にありそうなその風流さに、目がトロンとしてきます。椅子に腰掛け、この和の空間に溶け込んでいきそう……。

そんな感じを3回くらい繰り返しながら、徐々に人が増えてきました。夕食前に行っとこうか、といった感じでしょうかね。人がいても静かで穏やかな雰囲気なのは、さすがは国立です。たぶん。

はあ……気持ちよかった。

外に出ればまたブワッと冷たい風が吹いてきました。お腹も空きました。せっかくだから、国立で食べましょう。


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ピアノ教室にいらっしゃいました。

 

国立駅前の細い路地を折れると、ありました。ロージナ茶房さん。前々から行ってみたかった喫茶店です。ずっと前に誰かに教わったところなのですが、その「誰か」が誰なのか、元気に暮らしているか知るすべもありません。そんなお店が東京にはたくさんあります。たぶん一生かかっても行けないな。ほんと、それくらいあるんだ。Googleマップ開くとマッピングが凄まじくて毎度軽く引くんだ。

ビーフストロガノフ選びました。こういうの好きで、ナポリタンもグラタンもありましたが、ついつい……。


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おお!

ボリューム満点!!!ライスの量は困ることなさそう、なぜならルーより多いから!

ひとさじすくって、トロトロに溶け込んだ具材を知る……ライスと合わせて、いただきます。

 

………おいっしい!!!

ああ、なんとなんてこれはビーフストロガノフ!!

甘さと深みとの間を漂う奥ゆかしき味わいが鼻に抜け、トロトロの玉ねぎやらビーフやらが食感に華を添えます……。

いっしょに頼んだバナナジュースもよくって、これは多幸です。


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多幸でした

 

今日はそんな感じで、胸もお腹もいっぱいな帰路についています。

もう年末ですね。あっという間です。1年、何を成し遂げたかは分かりませんが、とにかく自分なりに頑張りました。皆さんもそれぞれそうではないでしょうか。

年の瀬に、いい日曜日を過ごせました。

また銭湯に行ったら報告しますね。

それでは!