受験生のころのあれこれ

 曲がりなりにも受験生をしたことがある。そのワンシーンをどうしても思い出すときは、たいてい中央線で市ヶ谷のお堀を通っているとき、くらいのこと。


 都立高の卒業学年にいて、卒業単位もぎりぎりだったなか、一丁前にも理想的な進学プランを立てていたのは、紛れもなく私のことだ。
 あれ、なんだか既視感が……。と逸らしてみたが、考えの甘さは、中学時代のわたしと、もっというと、現在の私とも同じだ。塾の進学先高校一覧で、「やろうと思えばあの高校もこの高校もいける」「天変地異か突然変異の類で、進学校も夢ではない」などと抜かしながら勉強を怠け、さしずめカタログを物色する気で数年後を夢見ていた(そしてまったく予想しない高校に進学することになった)。ああ、まったく成長していないじゃないか!


 その頃とはさまざまに事情は異なっていたが、私の僅かながら元気な意欲と周りの勧めもあり、受験生としての一歩を、と、夏に差し掛かるか春の終わりごろかに、地元の塾に通い出していたのだ。しかしその当時から授業に出ることがすでに大仕事だった私が、さらに勉強という尋常ならざるイベントを(私のために)請け負ったあたり、ホントに大丈夫かいな、と周囲は心配していたのだろう、精神状態をよく訊ねてはたくさん鼓舞してもらっていた(と、たった今書きながら、鮮明に思い出したのだが、忘れに忘れ、埋もれに埋もれきった10代の記憶の底から、わざわざこんなことを突然引っ張り出しても困るだけなのにな)。


 塾は少人数で、というか個別でなければ身がもたない。年齢は浪人生だがしっかり高校生だったので、そこらへんはアバウトなところを……と、制約がわりかし強いなか探していくと、近所に1件、受け入れてくれる個別塾があった。そこはパーテーションで迷路のように細々と仕切られ、そのマス目のひとつひとつに生徒と先生、こと高時給で働く大学生が敷き詰められている、少しだけ酸素の薄い思いがするところだった。
 最初の数ヶ月は、なんとか通うことができ、それなりに宿題などもこなすことができた。私は短期集中型の優等生なので(つまり中長期的にはくすんだ凡庸タイプとなる)、数ヶ月くらいは誤魔化しが効くのだ。しかし、徐々に雲行きが怪しくなる。危うげに軌道に乗った私に、模試をせよとの通達が出されたのだ。模試なんて、受験生にとっては一にも二にも模試・模試・模試に決まっているだろう。私も「きたか!」と身の引き締まる思いでいたのだが、なにしろ、通う塾は個別塾の環境。模試の会場にはならないのだ。
 そこで、私は単身、別の会場で模試に臨むことになった。「初めての環境」というのは、私にとって鬼門も鬼門。ただ昔はその危機感がまったくなく、実際に危機にあった当時も「いけるっしょ」とヘラヘラしていた。しかしその会場が、なぜかわからないが、家とまったくの無縁も無縁の街、市ヶ谷にある塾なのだ。それもよりによって、優秀な人材のみを集めた精鋭育成専門の進学塾。勉強もろくにしていない私はもうオロオロだ。
 というか、試験時間からして、オロオロヘロヘロだった。というのも、高校では定期考査中も終わったら抜ける、終わってなくても抜けていい、水分補給に外に出る、などの配慮に次ぐ配慮をしてもらっていたため、長時間狭い教室に生徒と共にし、一度でもその部屋の扉から出たら失格扱いになってしまう、その状況に身体がまったく馴染んでいなかったのだ。答案も、後半は問題文すら頭に入ってこないので、カンで答えてみたりした。おい模試だぞ。


 初めての環境、に加え、受験の精鋭たちに囲まれ(当然、外部の者は私ひとり)、さらには無限ループの渦に迷い込むほど長く感じた、たったが3教科の試験時間、そして出来の悪さ!終いには、そのくせ志望校リストのラインアップの華々しさ(後述します)!さすが鬼門、生きた心地もくそもなかった。ようやく呼吸ができたのは、帰りの有楽町線の馴染みのある黄土色のラインをこの目で見た瞬間だった。ホームタウンに帰るのがこれほど心強かったことはない。笑えるくらいの総合的大敗(カンで解いた後半はもはや不戦敗)だった。


 後日、市ヶ谷の塾で、模試の結果を見つつ面談をすることになった。当然、馴染みもないうえ、エリート養成所に迷い込んだ薄汚れた一匹の羊に相手をする時間は確保したくはないだろう。私も私で、模試の結果なんて帰りの黄土色電車でじっくり省みるから早く市ヶ谷から脱獄させてくれ、と表情で語っていたのだろう、およそ10分もかからず面談は終わった。
 が、それにしてもなんとも惨めな模試の内容だった。「これは志望校、かなり厳しいです」との塾スタッフの言葉に十二分の慈しみを感じるほどの悲惨さだ。逆に馬鹿にしているのか、いや馬鹿なのだから写実的に私を見てくれているのだろうか、といろいろ卑下の含んだ言葉遊びをしてみたり、「カンにしては偏差値50はかなりいったんじゃね?」なんて鼻で笑うような擁護を心の中でしては心の中で鼻で笑っていた。10分はあっという間だった。逃げるようにして帰った。


 逃げるようにして市ヶ谷をあとにしたのは、もうひとつの理由がある。私の志望校選びの華々しさが、どうしようもない恥さらしに思えたのだ。いやそれは数年経った今この時でさえ、ブログに書くのも躊躇われた(書くが)ほどだ。志望校欄には3枠あったので、なにかストーリー性のあるところにしよう、とあらかじめ決めていた。さらに私は、熱血でさえあれば生徒から慕われると思い込んでいるタイプの塾長に「まずは大きく出てみよう!」とおだてられきった豚になり果てていたので、いかようにも信じられない3大学を易々と書いてしまったのだ。
 まず、1枠目は父の出身大学。赤い門構えでお馴染み、最近では、食堂の絵画を捨てたところ殊の外尋常でない価値があった事故でお馴染みの(それくらいの知識しかないあたりお察しである)T大学。よくここで羞恥が働かなかったこと。
 2枠目は、母の家系が巣立ったM大学。当時付き合っていた彼女とオープンキャンパスに行って、なんだか死にたくなりその後然るべき場で情事に耽ったという限りなく死にたい記憶が蘇る。
 3枠目は、そのM大学が、脈々と歴史を刻みながら(一方的に)ライバル心を燃やし続ける、母の家系も、とりわけ箱根駅伝では目の敵にして正月の2日間を(M大が強かったころは)楽しんでいた、W大学。この大学は、時を経て今年、W大生の友達の誘いで秘かに授業に潜入してみたり、さらにはコメントシートをしれっと書いて提出してしまった、母の血筋よりよっぽど縁のある大学になっていった。
 と、本当に書いていて恥ずかしくなってしまった。もちろん、3大学すべて、後半をカンで答えた私には縁のない大学だった。そりゃあ急いで市ヶ谷から逃げていくよな。


 それからは、一気に調子が崩れていってしまった。心がすっかり折れてしまったのだ。今の私ならそこで異なる視点を入れるか、その相談を周囲にできただろうが、当時の私は今よりも一本鎗に不器用で、頑なに不調へと直滑降してしまった。情緒が不安定になり、塾を早退したり、熱血塾長の一言に過剰反応し、涙が止まらなくなる(そして多大な迷惑をかける)事故も起こした。そんな状態では、もはや勉強どころではなく、それどころか、高校の授業出席も危うくなってしまうだろう、と言うより早く、それが現実となってしまったため、これはヤバい、ということで、ここで白旗をあげたのだ。
 しっかりがっつり心の折れて再起する気も起きなくなった貧弱高校生の私は、受験生という肩書を捨て、指定校推薦に切り替え進学できる大学を探すことにしたのだ(指定校に選んだ先は、埼玉県にあるミッション系の大学。愛に恵まれた環境で、しかしやっぱり、授業に出席することが苦しく、またも配慮に次ぐ配慮によってギリギリで卒業が果たせた)。


 その一連の出来事を思い出したくないのだが、どうしても中央線の、当該地域を走行していると嫌でも思い出してしまう。し、どうやったって「if」がつきまとう。あのときもっと頑張っていれば、あのとき逃げなかったら(ないしは、もっとセルフコントロールが上手だったら)……などなど、挙げたらきりがないif話は、今だって浮かんできてしまう。
 が、なんとなく、私は「そうなるべくしてそうなった」ような気もしている。指定校推薦で入った大学では愛と知の恵みを存分にいただいたし、それ以上の要求レベルは、おそらく私は処理できなかっただろう。今よりももっと、失ったものが多かったかもしれないし、得たものも少なかったかもしれない。逆に、現在の選択をしておかげで、失ったものも少なく、得たものも多く在れているのかもしれない。と、想っておけばいいかもしれない。


 わからない。決してわからないし割り切れない10代の末期だったのだが、そういう苦さとか、肩を落としてしまう経験とかを、武闘派だとしても都合よく解釈し尽してみるのが、幸せなことかもしれない。そんなことを完全に理解したら、おそらく生きていても楽しくないだろうし。知らんけどね。
 思い出したので、すべて書き残した。