伏し目がち

 伏し目がちに生活をしていた。私が普段生活をしていて、よく置いている視線の角度は、水平からやや斜め下。ひとりで過ごしているときはさして支障はないかもしれない。が、人と会話しているときにも、数往復のやり取りを終えると、テーブルに置かれたコップあたりを眺めていて、我ながら、やや暗い。ひと息つくつもりが、それ以上に、話す気力と心がけが薄まっていく。
 下向きになった生活に慣れていると、「楽しさ」「心地のよさ」もまた、曖昧になって虚に溶けていく感覚がある。怖いことだ。新聞の記事で読んだが、目線を水平以上に置くだけで、下がり気味の気分から離れることができるらしい。まさかあ。やや鼻で笑いながらも、騙された気になって顔を上げてみた。呆気ないほどに憂鬱さが抜けていく。あはは……。


 そういえば、小学生から中学生にかけて、「どこか安心する」から、歩くときは下を向いていた。通学路の白線をじっと眺め、学校と自宅とを往復していた。「ここにはこの落し物がある」「ガムの跡がある」「落ち葉に色がついている」とか、目下の変化に目ざとく気付く子どもだった。そんなものだろう、誰もが下を向いて歩くものだとばかりわけもなく信じていたが、高校生のあたりでは、もうすっかり真横目線で歩いていた。
 なぜ下を向いて歩いていたのだろう。「道に落ちている物に意味を見い出すのは私だけだ!」と意固地になっていたのかもしれない。って、今、でっち上げてみた説なんだけれど。中学生の自意識っぽさに、今の私の性格と辻褄が合いそうだが、世代型の流行り病のような思春期のことは、それほど今と繋がっていない気もする。

 で、伏し目がちな現在の私のこと。気分が楽だからしているのだろうが、角度が下がりはじめたときには、気を付けよう。