執着

もしも私に「恋をしている」、という状態があるならば、
それは限りなく「執着」に近いだろうし、
またはあらゆる可能性を「恋」に圧縮して閉じ込めているのだろう。

もしも、それら不毛か有益かわからない行動を抜いたとして、
相手の顔を浮かべたときに、
その人物のどのようなところに「愛しさ」があるのか、
とひとまず考え続けて、そして答えはでることもなくて、
(やっぱりそれも不毛か有益かがわからないことだったけれども、)
そのあとに、最後に残るのが、
相手に対する「愛しい」その一点のみだ。
あらゆる分類を超えて、強度のみが残った「愛しさ」があるだけだ。

 

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なんであれ、「愛しさ」その一点さえあれば、
他の理由付けはなにも要らない代わりに、
その強度についてのやり場は、どこにあるのだろう。
で、それでいて、「執着も愛しさの表れ」なんてことになれば、
このはなしは、始まってもいなければ終着点もなくなるけれども。

 

こんなことを考えてしまうのは、
満杯になった寂しさ、虚しさでどうしようもなくなった今と、
だいぶ関係があるのだろう。