2018/08/12

 眠気が強い日だった。
 日曜日。多くの人々が、何もしない日。もしくは、遊び耽る日。なんだか安心だ。こういう日は、何もしなくても、遊び耽っても、とがめられることのなく、胸を張ったっていいのだ。
 私は、かれこれ1年以上、求職と療養とを行ったり来たりの生活を送っているが、そんな日々の中にいるならば、たとえ何もせずとも、遊びまくろうと、それは何曜日だってよくなってくるものだろう、と想像していた。
 でも、現状は違うのだ。月曜日から金曜日の、いわゆる「平日」を、強く強く意識してしまう。目障りなのか惹かれるのか、月~金のうちに何もしない、または遊んだり休ませようとすると、どうしてもうす暗く重たいものが、肩にのしかかる気がしてならない。まあ、「後ろめたい」という、簡単なものだ。そりゃあ、「私は私の進み方がある」と考えるより「みんな働いているところで、私はなにを……」と伏し目がちに悩むほうが、話が早いし、頭も使わずにすむのは、なんとなく想像してはいたのだが。
 私は私の思うより、型にはまった人生を送りたかったみたいだ。こうであるべき、に適合するような風で生きていきたかったみたいだ。規範的で、倫理的で、道徳的なまっとうな人生。そんなものにやっぱり憧れがあって、それを思うたびに、「平日」を忖度する頼りない私がいる。
 まあ、「頼りない」としたものの、平均的に頼れる人間なんて、ほとんど神話の世界の存在だとは理解しているし、誰だって、この生活になれば私と同じようなものになるだろう。きっと、誰だって襲われていく渦に、もれなく私も巻き込まれてしまったのだ。
 型にはまった人生はつまらない、とは思わない。安定できることは、それだけ恵まれているのだ。そもそも、「型にはまった人生」自体が、たんなる理想や「こうであるべき志向」が生んだ偶像に過ぎない。その偶像を、今でもしっかりべっとり崇拝しているひとりに私がいるのだ。
 そうだとしても、日曜日になりようやく思い切り羽を伸ばして、羽を伸ばしすぎて眠気に伏せる1日を送る、そんな経験を送らないことに越したことはない。空白の多い日々を知らないに越したことはない。
 ただ、ちょっとだけ主張したい。「型通り羨望」がありながらも、濃度の高い個別人生に進むことを選んだ私が、私固有の生きる術を少しずつ会得していることは、それはそれで楽しく恵まれているのだと。たとえびくびくした平日を過ごそうが、劣等感に苛まれようが、先行きを過度に案じようが、それらの安定のなさが大部分を占めようが、残る1割弱でも褒められているのだとしたら、いい試合をしているのかもしれない。型通り・こうであるべき志向にある私&それをしきりに推奨する社会との一戦は、緊迫と昂奮とが入り乱れる好ゲーム、に、なったりして。
 眠気が強い日だった。日曜日に眠気の強くなる私は、見事に私らしい。