さよならだけが人生ならば、

 私は、病に苦しんだが社会に苦しんだ経験がない。つまり「社会経験」が乏しい。
 ほぼ毎日通っている就労事業所には、そのどちらにもがき苦しんで来たひとたちがいる。そのひとたちに、私はさまざまな想いを抱きながら、通所と訓練を続けている。ひとことではいえない、しかし私なりの、未熟なりともしっかり存在する誠実さで、かれらとともに生活をしている。
 社会に疲れ切るって、どれほど苦しいのか、私にはわからない。自分が薄っぺらい、と感じるところはそこで、一方、「純粋」らしき、時に不純たるものを持っている、と、愚鈍に信じていられたのも、病に存分に苦しめる環境があったからだ。ずっと、病だけを見つめていられた。そうやって快復に向かったのも事実だ。しかし、社会は眼前に広がっている。社会がある。そこに私はいる。


 社会に生きたい。今よりもやさしさをもつために、通過儀礼を抜け続けたい。……と言ってしまうところが、すでに薄っぺらいのかもしれないが、ついに、そうやって信じるしかない。「やさしさ信仰」に猛進できる以上、信仰しない手はないだろう。
 でも、最初に立ち向かう壁に、もううんざりしてたまらない。この2018の世にはびこる「鬱性信仰」「諦観信仰」には辟易する。疲れきってしまう。そんなもの、依りかかれるならそうしてしまう。だって、深く考えなくていいもの、思考停止していればいいもの。でも、それは圧倒的に不誠実だ。私は強くそう思う。それらの、まるで怠惰な信仰を続けていたら、自分に向けられた傷には敏感なのに、いざ自分が相手にした傷害にはひたすら鈍感な、人間、いや、ただの暴力の塊になってしまう。
 だから徹底的に抵抗する。心の中にはペンを武器にしながら、日々を着々と送っていく。「さよならだけが人生だ」とうそぶきながら薄笑いを浮かべるひとびとに、「さよならだけが人生ならば、人生なんていりません」くらい言いきる勇気をもとうよ、と告げるような感覚で。