ラブレター

きっと、日本という国は、貧しくなって久しい。お金も資源もなくなって、買いたいものが手に入らなくなって、価値あるものも手放すしかなくって、生活って、なんだっけ?なんて問いが浮かぶほどに生活が保たれていない。
そう、日本という国が、貧しくなったあらわれが、わたしにも、あなたにも、通勤ラッシュに詰められたひとびとの、心ひとつひとつに、埋め込まれてしまったんだ。日本全国津々浦々が、団地で敷き詰められるなんて高度経済期の夢想は、一回転してユートピアに思えるかもしれないね。


物がなくても、お金がなくても、ひとの良心と愛でシェアをしようなんて、人間という生きものの希望の論調で言われるけれど、そんなことは考えられなくて、むしろ物とお金とがあればそんな発想が生まれない、人間の性格に嘆かざるを得ないのかもしれない。
人間は、そう人間は賢くてかなわない。この国が貧しさを直線距離で駆け抜けていることを、上手に上手に隠蔽している。良心とか、そう、つまりは愛とかいう言葉を利用した結果、この国の、わたしたち市民の心のなかは、物とお金と愛とが同列に扱われるもの、と、信じて疑わなくなったんだ。わたしたち自身の賢さによって、わたしたちは騙されてしまったんだ。


でも、でもね、それでも人間は、物と金があろうとなかろうと、きっと失えないもの、得ずにいられないものがあると信じているんだ。
それは愛だ。愛そのものだ。わたしはより一層、それへの信仰を強めつつあるよ。
愛する者の存在が、わたしを生かす、永遠にも思える生を輝かせてくれる、そんなことは嘘といえるかい?欺瞞といえるかい?愛する、愛の火をつけて、静かにくべる存在があることこそが、人間の性格の信仰すべき場所だと思いたいよ。


わたしは、わたしのためにいまいちど確認したい。愛は、貧しさの克服として利用するでも、貧しさの隠蔽装置として発動するものでもなく、そんな軽視をするほど貧しさと相対的はものではない。愛という、絶対的な存在の上に、社会と資本がのっかかるにすぎないんだ。わたしはあなたを愛す、わたしはあなたがたを愛す、あなたは誰かを愛しはじめる、あなたがたは誰かしらを愛し続ける、それはきっと、時代や世論の左右とはかけ離れた、当たり前すぎるあまりに忘れ去られた神聖な領域だ。
だから、愛を、貧しさのための手段にしてしまってはだめだ。わたしたちがもつ、わたしたち自身の尊さを、物質や換金の一要素に落とし込んだらだめだ。愛は何もかもに打ち克つ力がある。だから、資本の口車に乗せられるようなザマはしないでいようよ。貧しさの悪者は、わたしたち人間の愛じゃない。そうじゃなくて、わたしたちの愛の軽視だ。資本に愛を負けさせたがるわたしたちの負け癖、逃げ癖だ。


ということで、最後に、告げます。わたしはあなたを愛しています。わたしはあなたがたを愛しています。森羅万象を愛し尽くして生きそして死にます。