もの思い・せつない

 なくしたものやなくすものを時たま想うため、暖かい部屋に少しだけとどまりたい。あのひとが優しかったこと、あのひとの言葉が心を小さく灯したこと、言葉をかわさずともなにかが通う、そんな予感がすること。今はもういないひとを想うことは、ただの想い出に浸るにすぎず、翻って誰に向けても想っているわけではないが、ついつい、しかし時たまに、自家中毒みたいに、暗部に触れるように、なくしたものの断片を取り出して、また仕舞う。
 失う想像はただただ黒い気持ちを呼び起こすが、他方、皮肉にも、失う存在の尊さもまた際立っていく。今はもういないひとや、今後の喪失に想いをやるひとの顔が、パッと浮かぶこと自体、じつは、その存在に触れた意味で幸せなことかもしれない。と、そんなきれいごとで慰めながらも、やっぱり、これはまるで、失う未来に向かうために、心を溶かし続けているんじゃないか、としょっぱい気持ちになる。その行為を止める気なんて毛頭ないくせに。

 

 でも、こういう物思いは、本当に、心から、時たま、でいいのだ。それが丁度いい温度なのだ。そこで実際に、頭を冷やす必要がある。外に出ろ。
 強い寒気は、喜びや悲しみなどといった想いの数々をも遠ざける。暖房のきいた部屋を出れば、冴える冬との格闘。しんと静まり返る心で立ち向かう。ここ数日は、冷蔵庫よりも空気が冷えているらしい。歴史的な大寒波が、東京を襲っている。ところで、地方から上京してきたひとが、こう漏らしていた。故郷のほうがよっぽど気温が低いのに、なぜか東京の寒さは心に堪えるよ。いわれてみれば、たしかに堪えつづけていたな、人生のほとんどを東京にした私の冬は。
 寒気を前にすれば、熱なんて、瞬きする間もなく奪われる。そうか、感情に、燃え盛る炎ほどの強靭さはなかったんだ。本当は、蝋燭のてっぺんで添えられたともしびほどの、か細いくらいの力だったのか。だから、なるべく外に出るべきだと考えているものの、とにもかくにも、わざわざ用を作ってまで外出するような気温じゃないのだ。ただそうしてぬくぬくと暖かい場所に入り浸ると、物思いの熱がずんずんと上昇してしまう。時たま、を超えてしまうのは、生産しないうえに単純に疲れるから、昨日は用もないのに外に出た。ひたすら凍えて死ぬかと思った。

 

 

 このはなしは、ある朝の新宿で、やけに長い赤信号につかまっているあいだ、暇をつぶすために考えてみた程度のことだった。それが案外、クリーンヒットしてしまって、ちょっとこの場に出してみよう、と、ぱたぱたキーボードを打つに至った。まとまらないままにここまで書いてしまえるのもどうなんだ。
 それにしても、幸せ、というものは、苦さの調合を間違えている。かつて、手放しに幸せ、という経験を夢見ていたことがあった。今は、それは幸せとはわけが違う状況に身を置いているからこその反応なのだと、ちらりちらりとわかりはじめたような、わからないままのような。なので、曖昧のまま放置している。わからない状態は、少し楽しい。その状態にあると、ひとと多くを会話したくなるのだ。