春だったね

桜並木になる予定の枯れた木々が互いの枝をぱしぱしと痛めつけている冬の道を歩いている。生きるそのものが楽しいこと、悲しいこと、の二極でことが進むようにしか思えなくて、あそこに綿のような花が咲き誇った頃には悲しみの表情で見上げていそう。
桜の咲くのを眺めていることに楽しさが感じられず、いつも心の奥底で、畏怖に近い肌寒さを抱いている。それでも桜はあまりに見事に咲き誇る。毎年同じ美しさに、美しいものがただ単にそれだけならば、人は見上げることなく宴会だって開かない。美しさは悍ましいものなのだ。優しさだって悍ましい。心の内にある黒さを上手に外気に触れさす美的感覚の長けたそれを、人は「美しい」と形容するのだろう。


温暖な気候が日に日に増してきた東京、がっちりと固めた上着をいま、妙に恨めしく睨みつける思いがした。私たちはきっと季節を忘れるように出来ている。コートやダウンのいかつさが滑稽に感じるし、それを欲し依存して生活していた自分のことがはるか昔のことに思えた。ともすれば、1ヶ月前にいた私は、ささやかな物語の端役ほどの別人にも感じられた。「あの頃はどうかしていました」との言い訳はなるべく使わないことに越したことはないけれど、そう感じる瞬間に圧倒されながら、毎秒ごとに過去の自分にそんな札をかけてやる。


春が近い。春はすぐそこにある。もうすぐ、あそこ、あと数歩、とカウントする楽しみと、気がつけば汗がにじむ季節にまで通過した悍ましさが同居している今は果たして幸せだろうか。幸せかなあ、そうでないかなあ、幸せになりたいなあ。いまはどうかな。などと抜かしているうち、2020年の春を迎えてしまったら、どうするつもりだろう?