水流のひとさじ


いま、‪伝えたいこと、晒したいことの出力を、ツイッターからブログへとすべて移してみたときに、私は、思ったよりも熱く熱く伝えたいことや晒したいことがあることを、そのあまりに多いことを、美醜含めて余りあるほどに感じた。また幾ら文章を書いたとして、それでも足りないほどの熱があり、それを一瞬一瞬のうちに地面へと溢れさせ蒸発させるのを黙ってみている、その苦痛さもまた耐えられない。‬


‪その一瞬の、過ぎ去っていった、「尊かったもの」「拾えなかったもの」のひとつひとつが、それらの積み重なった仮想の山が、どうか私の体内の、未だ認知していない引き出しに仕舞われていること、それをただ願うしかない。そうして、水流のなかのひとさじを掬って作る文章が、できれば近い解釈で、または大きく離れた解釈で読まれて欲しい。そして私が私の何かに気付くことに期待して、衝かれるように書いてしまう。