肉体と精神に関する嘆願書

 当然ながら、私には肉体がある。
 なぜに魂には肉体が付随しているのだろう。おそらく、あらゆる問題の根本には、肉体が関係している。煩いごとの根底に、私を煩わす張本人として、肉体があるだろう。なぜ私を煩わすか、それは、肉体には、感覚が備えられているからだ。肉体全域に張り巡らされた感覚ネットワークは精緻なもので、また過敏なもので、触れるか触れないか、その合間にあるものさえ、感覚信号は発され、脳を伝い、私の精神へ、心の内へと送られてくる。あとは精神の領域内で、自由にフォーマット変換して楽しめばいいのだが、ちょっとした疲れのなかにあると、その変換作業も苦行に思え、それ以前の感覚の受信も辟易し、そもそも、「感じる」ことさえ、労働に思えることだってある。だから、極論を言い切ってしまうと、こういった言葉になるのだ。なぜ、私には肉体があってしまったんだ!


 そうそう、肉体がおぞましい理由はほかにもあるのだ。もう少し話を聞いてほしい。
 私が思うに、感覚の多くが変換作業を経たあとの判断は、たいてい、「痛」だ。痛い。あまり心地よくない。不快感がある。感覚は、たいてい痛覚で、いや、またも極論を言ってしまうと、感覚、即ち刺激、それ自体が痛覚なのだ。ああ、なんて体内ディストピアだこと。さらには、痛覚の変換の仕方にも、居心地の悪さがある。おしなべて、痛覚を痛覚と理解することはあっても、だからといって、苦しみの感情として受け取ることはまれだ。たいてい、それを「快い気分」に変換して、感情をつくっていくことのほうが多い。私は、その肉体から精神に行きつくまでの、マゾヒズムみたいな工程に、強い異物感を抱くのだ。また叫ぶ。なぜ、私の許可を通さず勝手に快感させるんだ!

 

 

 それでも、生きている以上、当然ながら、私には肉体がある。
 肉体がある以上、私があり、また肉体によって、他者がうまれる。
 そう!その厳然たる事実も、不愉快極まりない。私たちは、精神を介して他者をみることができないのだ。必ず、肉体がなければ、目の前の相手を認知できなければ、わかり合う(正確には「わかり合うフリ」)こともできず、どうしても、肉体優勢の生を営まなければならない。私は、私は肉体ではありません。精神という私に厚ぼったい服を装っているだけです。本音では、本音ではね。本音と建前がある以上、そんなことも言っていられないので、肉体と精神を直結させてはいるものの、ちゃんと両者の間には、翻訳者/仲介者がいることも私は認めている。
 けれど、どうしてもやりきれないのだ。精神に生きていたいはずの私が、どうしても肉体至上主義みたいな生を生きなくてはならないのが、無性に、やりきれないし、さらには、悔しい。生きる以上、戯言に収斂されることが分かっているから、よりいっそう、悔しくてたまらない。
 ならば、死んだらどうか。とも思う時もあった。でも、そこでも悔しさがあるのだ。肉体を放棄した瞬間に、精神、即ち私もきれいにクリアされてしまう。逃げ場のなさ。閉塞感。そこに、耐えられないときもあるのだ。でも、死ぬのはナシかな。いろいろと。

 


 ここまで書いて今更ではあるが、これは、身体が不自由になりたい、とか、身体に障害をもちたい、とか、そういう次元ではない。不自由さ、障害の有無は、すでに肉体によってもたらされたものだ。すべての生きる者が、肉体の受難に遭っている。私だけではない、痛覚に呻く声が大音量で聞こえてくる、そんな気分で生きるのが、なんと大変なことだろう。
 と、私は思わず、共感の嘆願書を、ここに書きなぐったのだった。肉体をもつあなたは、どうしてやり過ごしていますか?