夏に降る雪

夏に降る雪があるなんて昔話をきみは信じるだろうか? 僕が大人になったころ、テレビの気象予報士は「不思議なことです」と、台本通りにコメントしながらも、昂奮しているのは語気の強さでよくわかった。でも、大人のなかで昂奮した人は、少ないだろう。僕も憂鬱だった。なにせ、その日は僕の誕生日だったのだ。タンスの奥からダウンを引っ張り出して、最後に来たのがクリスマスだったな、と、さらに苦く思った。

僕の好きだった人は、クリスマスに亡くなった。駆けつけたときには、病床で静かに固まっていて、これが人の消えることか、と、それだけ、思った。あのとき、死ぬのにふさわしいのは、僕のほうだった。窓に粉雪が舞っているのを、ただ眺めていた。

あの日と同じ粉雪が、夏の街中にちらちらと舞い落ちる。地面が、粉砂糖のように薄っすらと白くなる。うんざりだ。早く帰って、このダウンを脱ぎ捨てたい。

しかしふと、気がついた。僕のように渋い顔した群衆の中、たったひとり携帯電話で写真を撮っている女性がいたのだ。彼女は、表情をなるべく変えず、それでも目を輝かせ、淡い雪景色をぱちぱちと撮っていた。

美しい、と思ってしまった。僕はしばらく、そのような心地と感情を味わうことのなかったし、もう二度と、ないものだと信じていた。が、こんな粉雪の降る夏に僕がまた生まれたことを、不覚にも、全身で思い知ってしまう。

だから、きみがママを美しいと思うのは、ごく自然のことなのだ。

友達からテーマを頂きました。 「憂鬱」「クリスマス」

皆さんも、お気軽にお願いします。

ソーダ、クリームレモンソーダ

氷の結晶の角ばったように雨が地面を打った。晴れてばかりの東京都内、雨音を聞くのは久々のことだ。喜びも悲しみもしなかったが、吐いて吸う空気の違いが緊張を解した。

帰る家があるようなないような。自宅が自宅でない精神状態のときは、もしかしたら、もっとほかの家や、街や、海や森のなかに、私の帰る場所があるのかもしれない。自宅はひとつでなくていいし、自宅は宿住まいの気持ちでいいのかな、と思いながら傘をさした。小雨の尖った音がする。ふだん、東西南北の方角を意識しながら歩いている。こういう瞬間のためである。

咳をするようになった。喫茶に入る。冬らしくなってしまった。

振り返る夏の日はサイダーの弾ける香り。まだ煙の味も知らないサイダー。ある日気まぐれに下車した都市公団の真ん中にある高架駅から、4、5分も歩けば車通りも少ない閑散とした郊外が広がっていた。起伏の大きなバイパス。人も歩かないが街灯も申し訳程度に灯されていて、私が本格的にいなくても良い気になってきた。夏の夜、気味の悪いほどに涼しい。隣県の中規模ほどの駅に通じる小さなバスがたまたま通りかかったときは、心の底から安堵した。ゆるい悪夢みたいな心の悪さ。ここ、何処なんだ。何処にあるんだ。

冬に飲むサイダー。思い出すひとがいる。毎年思い出すしかない人物が、夏ごとに増えていく。

弾けた!

当駅始発快速東葉勝田台行き

 中野駅の高架下を歩くとホームのアナウンスがよく聞こえて、橙色の照明ばかりの道路が強い色に思えて、ふと冬だと思った。今日はひときわ冷たい風が身体中に当たり、眼鏡もカチカチに凍った風体でいて、ようやく私は12月にいるのだ、と気付いた。
 クリスマスソングはもしかすると先月から延々と流れていたのかもしれないが、今年初めて耳にした気がした。生温い外気のなか、静かなのかナチュラルハイなのか決めあぐねた音楽を聴いても、さほど、認知すらできない。誰のためのクリスマスか、なんて言説以前のレベルで、街中が冷えてきてからようやく、あ、クリスマスだ、私はクリスマスの中にいるんだ、とひしひしと感じられた。
 中野丸井の2階にあるコメダ珈琲店によく通っている。午後8時以降。狙ったわけでもなく、なぜか、中野に降りるときは日が落ちていて、夜のコメダしか私は知らない。窓側の席に腰を下ろして、駅前交差点をだらだらと眺めている私も、中野駅南口から流れ出る通行人も、どうしてか決まりが悪い佇まいをしている。決まりの悪くて、ぼーっとコーヒーを口につけ続けているうちに、2時間ほど経っている。喫茶に入ることはあっても、同じ店に通うことは、これまで経験したことがなかった。ひょっとすると、そうしてから、コーヒー1杯の消費量が、格段に下がった、かもしれない。1杯で粘る、というものを覚えたのか、ぼーっとする時間がほしいだけなのか。しかし2時間以上も粘る勇気も不義理さもなく、飽き性でもあるため、だいたい終える。
 中野丸井は午後8時以降、コメダ珈琲店を除くすべての店舗が店を閉める。シャッターを下ろす。エスカレーターも止まる。普段は使わない階段を降りる靴音の、よく反響するところが少し好きだ。店内になにもないことも、放課後の学校に思えてほんの少し、落ち着く。
 投げやりに放っておいてくれる冬が好きかもしれない。投げやりに放っておいてくれれば、あとはひとりでに始めたり終えたりしている。

伏し目がち

 伏し目がちに生活をしていた。私が普段生活をしていて、よく置いている視線の角度は、水平からやや斜め下。ひとりで過ごしているときはさして支障はないかもしれない。が、人と会話しているときにも、数往復のやり取りを終えると、テーブルに置かれたコップあたりを眺めていて、我ながら、やや暗い。ひと息つくつもりが、それ以上に、話す気力と心がけが薄まっていく。
 下向きになった生活に慣れていると、「楽しさ」「心地のよさ」もまた、曖昧になって虚に溶けていく感覚がある。怖いことだ。新聞の記事で読んだが、目線を水平以上に置くだけで、下がり気味の気分から離れることができるらしい。まさかあ。やや鼻で笑いながらも、騙された気になって顔を上げてみた。呆気ないほどに憂鬱さが抜けていく。あはは……。


 そういえば、小学生から中学生にかけて、「どこか安心する」から、歩くときは下を向いていた。通学路の白線をじっと眺め、学校と自宅とを往復していた。「ここにはこの落し物がある」「ガムの跡がある」「落ち葉に色がついている」とか、目下の変化に目ざとく気付く子どもだった。そんなものだろう、誰もが下を向いて歩くものだとばかりわけもなく信じていたが、高校生のあたりでは、もうすっかり真横目線で歩いていた。
 なぜ下を向いて歩いていたのだろう。「道に落ちている物に意味を見い出すのは私だけだ!」と意固地になっていたのかもしれない。って、今、でっち上げてみた説なんだけれど。中学生の自意識っぽさに、今の私の性格と辻褄が合いそうだが、世代型の流行り病のような思春期のことは、それほど今と繋がっていない気もする。

 で、伏し目がちな現在の私のこと。気分が楽だからしているのだろうが、角度が下がりはじめたときには、気を付けよう。

ブログを再開していく

 1か月以上、書けていなかった。
 このブログの文章を書くにあたっては、率直に、「書きたい」との意欲のほか、きっかけを作っていない。そのため、意欲如何では毎日のように更新することもあれば、最近のように、しばらく沈黙することもある。
 正直、今も「書きたい」気にはならず、できる事なら、文章を作ることも、完成することも、どこかに明かすことも、心地よさがなく気が向かない。自分の心の内にある苦くて薄暗い感情が、1枚ごとに握りつぶされた原稿用紙のようにそこいらに転がっていて、そんな腕力でねじ伏せた痕なんて、見向きもしたくない。

 


 が、そんなことは、もう、言っていられない。というか、言いたくない。苦くて薄暗い感情を抱くときほど、私は自分自身に率直な想いを向けている。対して書きたい時ほど、私は何にも向き合いたくない、隠しておきたい、埋めておきたいものがある。素直に振る舞うほどに、その影で殴打するもの、殴打されるものが、それぞれ私の内にある。その反復に、本人が、へとへとに疲れてしまったのだ。
 かといって、今、書きたいものが、ない。「書きたいものがない」というのは、つまり「そもそも、書いて、出して、伝えて解消される想いではない」ことの言い換えで、さらに変形させると、「書いて出して伝えて解消されるものほど虚しさに接近する」ともいえる。ごちゃごちゃと書いてきたが、私が書く文章に、私自身、「嘘だなあ」と感じたのだ。「嘘っぽい」文章は好きだが、「嘘」を連ねていくことに、意味を感じない。これは文章に限った話ではなく、会話の中でも、私が発した言葉の「嘘さ」に、自分自身、苛立っている。私は私に向けての、心地よさがない。
 その点で、私の内でも「書きたいものがない」と思うことは、少し、信頼できる。本当に書きたいものがない。書いて足りるものがない。そして書かずに発さずにいると、自分の中に「嘘」が溜まる。
 うまく言葉には出来ていないが、そういう厄介な状態にあるため、ブログを再開していく。

2018/08/14

 明日は旅行の初日。といっても、出国は夕方過ぎになるため、日中は荷造りの最後の確認でもしつつ、体力を温存して過ごす予定だ。


 出国、と書いたように、この旅行は国内ではなく、海外に飛び出してのものだ。久しぶりの海外旅行。母方の親族の計画にお邪魔したかたちだ。最後の海外は、およそ10年以上も前のこと。それほど前のことになると、出国手続きの作法から外国の空気の吸い方まで、すっかり忘れてしまった。少しは調べた方がいいな、とネットで調べてみたものの、いまいち、実感として感じなければ難しいものもあるかもしれない。なるほどかなり緊張するな。おそらく大丈夫だと思うが、ひとしきり緊張はするものだな。

 

 と、不安はそこそこあるものの、それを上回る楽しみが、出国日の近づくたびに増していく。どんな旅になるだろう、どんな風景が広がっているのだろう。私の吸う外国の空気は、どんな風味なのだろう。
 実は、旅行先の国のことを、ほとんど調べていない。旅先はギリシアなんだが、何も知らない。いや、これはよくある「突貫的に旅に出るバックパッカー風」とかではなくて、しょうもなくただの過失だ。「海外旅行」の緊張と楽しみがやけに空回りしてしまい、日々ひたすら眠くて調べるどころではなかったのだ。ガイドブックを開いた途端眠気が襲う始末のうえ、もういいやと開き直る始末。成田へ向かうスカイライナーや飛行機の中でのんびり読んでみようと思う。

 

 今日は、まったく書けないや、全然浮かんでこないもの。……と、もやもやしながら書きはじめた今日の文章は、こんなに書けてしまいましたとさ。ポータブルキーボードを持っていくので、旅先でも書けたらいい。

 

※もう帰りました。超楽しかった

2018/08/13

 雷の音は私を昂奮させた。わざわざ強調することはないのだが、兎にも角にも、落雷の衝撃は私をひどく昂奮させた。何かの性癖なのだと思うが、何かを荒らす存在があると、安定を揺るがす何かがあると、私はいてもたってもいられなくなり、突き抜けた快感と、高揚、そして強い昂奮のうちにグルグルと堕ちていくのだ。ただ、それにも例外があり、そのたったひとつの例外が、人間そのもの。勿体ないなあ、最も遭遇確率の高いパターンが苦手だなんて、ツイてないなあ、と思うのだが…。ということで、人間以外の、安定を揺るがす存在に、私は何か惹かれるものや、期待を抱く性癖…いや、習性があるのだ。


 今日の落雷は、とてもよかった。すごくよかった。すぐ近くで落ちた雷は荒々しい直線でもって、たまに折れたりしながらも、容赦なく突き刺す印象があった。時を経ずして地鳴りのように轟いた雷鳴が、全身に素早く鳥肌を立たせた。襲ってくる、と自覚する間もなく、襲われたと感じた瞬間の快感は、筆舌しがたいものがあった。
 なによりも素晴らしいのは、理性では太刀打ちできない、畏怖さえ感じさせる巨大な自然の力に、私個人は全くの無力であることを、直面させられることだ。無力だ!醜い!汚らわしい!…とまではいわないものの、水浸しにされた街では、どんな反倫理的な行為であっても、逆にどれほど倫理的な善行であっても、誰も評価もしなければ見向きもしない、そんな爽快に腐った、挑戦的な気にさせられる。そんなこと、日常では滅多にないことだろう。


 しかしそれもやがては収まり、私に残ったものは、祭りの後の虚脱感と、低気圧襲来による頭痛と怠さだ。この文章は、残滓の力で書いたようなものだ。さっきまで荒れに荒れた天候だった東京23区も、今では打ち上げ花火の音が何処かしらから聞こえてくる。