ラーメンとラジオ

ラジオのかかる店で、ラーメンを食べた。

それは、新宿駅周辺に数店舗散らばって開いている熊本ラーメンの店。私はその店しかお気に入りのラーメン屋がない。「ラーメン」となると、この熊本ラーメンの豚骨細麺、の、絵だけが浮かぶ。ほかに記憶に残るラーメンは、今のところ見当たらない。
私はたまに食べるラーメンが好きだ。いや、もっというと、たまに食べる熊本ラーメン720円のあのラーメンが好きなのだ。それ以外を私は「ラーメン」などとは言わないだろう。私は「あのラーメン」が好きなのだ。小学3年生からの、舌に馴染んだなつかしの味。私のラーメンは、これだけが嬉しい。


今日の昼はここにする、と決めていた。自分へのご褒美、としてまずあのラーメンが浮かんだのだ。これまで、不調につき外出もままならなかった私だったのだが、本日ようやく、新宿に構える事業所まで、通所することができた。そこにかこつけて、ご褒美に食べたくなったのだ。
それと、そもそも、舌がラーメンの味を求めていたのもあった。久しく食べていなかったな、あのラーメン。


店に入ると、満員になるまであと1,2席のところ。すんでのところで並ばずにすんだ幸運さを感じながら、720円を食券機に注ぎ込んだ。周りはみな男、男、男。一心不乱に麺を啜るか、雑談をしながらその合間にでも気まぐれに啜る。客の様子はだいたいその二択で、私はその徹底的に干渉し合わない「the ラーメン屋」たる佇まいにホッとしつつ、ラーメンを待った。


おそらく5分もなかっただろう。滑るように卓上にラーメンが運ばれてきた。豚骨、細麺、馴染みの見た目。ひとくち啜ると、何も変わっていない味がした。五臓六腑へ浸透していく安心感と、ラーメンの熱。


不意に、初めて食べた小学3年生の日をフラッシュバックしたり、矢野顕子の「ラーメンたべたい」がいいんだよ、と勧めるも鼻で笑われた出来事もあったな、と振り返った。そして不意に、この店には、AMラジオの音が聞こえていたことを、鮮烈に思い出す。


このラーメン屋、新宿では数店舗を営業している。そのうちよく行く店はどれも東口にあり、私の入った西口の店は、今日を含め2回しか来たことがない。

前回、今年の初めあたりに来たときには、客は私だけだった。同じ720円のラーメンを頼み、所在なさげに空いた席へ座る。すると、席の近くで、雑音混じりのごちゃごちゃとした音がして、なんだなんだ、と耳を傾けた。
それは米軍放送のAMラジオだった。それならば、聴き取れるはずがない。ABCニュースは、軽快なライムを刻むラッパーのようにも思えたし、挿入される音楽も爽快感のあるリズム感の音楽で、全体的に軽快だ。
ただ、どうしても、ラーメン屋にいながら聴くものではなかった。軽快さとラーメンは、徹底的に相性が悪い。それでも、我関せず、と調子の軽い放送が続いていることが、少しよかった(店員の誰かがチョイスしたのは確実だろうが)。


それを思い出しての、今日。ラジオは何を流しているのだろう。耳をそばだててAMのくぐもった音を探す。どこにある? ラジオは流れてる? それか、有線? そのいずれの見分けがつかない。なにせ男が啜る麺の音か、男同士がああだこうだと喋っている空間だ。聴こえなくても仕方がない。聴こえなくても、問題はない。

ただ、徐々に耳の感度を上げていけば、ちゃんとラジオが流れていることがわかった。それも、今日は米軍放送でなく、私のお気に入りのラジオ局の、それもお気に入りの番組だった。「ああこのラーメン屋さんも、この番組リスナーなのね」と心中ニヤニヤだ。好きなラーメン屋で、好きなパーソナリティの、好きな番組が店に流れている。嬉しくないわけがない。


しかしとにかく聴こえない。耳に届くのは、CM前後のジングル音と、交通情報を知らせるメロディだけ。他のものは、とりわけトークなど、聴けたものではない。これでは、なんにも放送されていないのと変わらないじゃないか。
それもそのはず。このラーメン屋の客も、店員も、誰一人として、あのラジオを聴いていないのだ。聴く気もなければ、あってもなくても構わない。彼らはそんな気で、ラーメンを啜っている(か、会話の休みどきに箸をつける)のだ。それに気づいた時の衝撃たるや。おお、ジェーン・スーさん、いまこの店、誰も貴方のトークを聴いていないんだよ……。


しかしそれが、今の私には、とてもいい、よかった、と思えた。あってもなくても良い。言い換えると、「なくても良いが、あっても構わない」もの、それがいかにもラジオらしくて、私は堪らない気になったのだ。

また、こんな気になったとしても、私がすべきことは、なによりとにかくしたいことは、誰の咀嚼音にも会話にも、そして聴こえないラジオ番組のトークにも集中せず、私の舌が愛するこのラーメンを、一心不乱に食らうことのみだ。
それは、この店にいる、あらゆるオフィス通いの男たちと同じことなのだ。その単純さに救われた。しょうもない大人たちの空間で、私はその「しょうもな大人軍団」のなかに紛れ込めたことが、嬉しかった。楽しく自分を卑下できることに、「しょうもな」と笑える自分に、ホッとするものがあった。



あってもなくてもオッケーな、なくてもオッケー、あってもオッケーで満ち満ちな場で、私は、ラーメンを勢い良く完食し、意気揚々と店を出た。