きみの一秒後

 きみには夢がある。ありとあらゆる理想の自分が頭のなかで笑顔でいて、なんども優しく呼びかけているんだろう。こっちへおいで、こっちがすきでしょう、素直になりなよ、って。さらに、若い自分には、未来があると信じてやまない。何年後も、何十年後も、しれっと生きている、と、信じて疑わない誰しものなかに、しっかりきみも紛れ込んでいる。大地震のリスクが年々増えようが、国同士の軍靴の影がちらつこうが、きみは、なんとなく、ボードゲームの展開を横から眺めているだけの、そんな立場で落ち着いている。
 だから、きみはきっと幸せだ。日々の些細な幸せが、これから先も、大胆にも老年期にいたるまで、続くことが担保されている、と、漠然と確信している。それだけできみは幸せ者だよ。それに、今の幸せというものが、心を赤らめることだと思えるのは、幸せという状態が、いかに冷酷なものかを如実に示しているんだ。幸せはいつでも些細なもので、不幸は死ぬまでこびりつくものと、きみはきっと、よくわかっているはずだ。
 でも、いっぽう、きみだってよく知っているだろう。今まさに、おおっぴらに掲げている夢や未来像や幸せは、非情にも、あっけなく崩落してしまうことを。そんなことは、あたりまえで、引き受けるほかないんだ。それでもきみは幸せだといえるなら、なにを根拠に、幸せを思えるのだろう。

 

 

 おせっかいを承知で、実際のことを教えてあげよう。きみに担保されているのは、一秒後の未来だけだ。一時間後でも、一年後でも、一生でもなく、たったが、一秒後。でも、そんな瞬きふたつほどの更新期間を繰り返しているきみは、そのあいだだけは安全で、無事で、幸せだ。
 きっと、きみの一秒後は、一文字分をキーボードを打つ、それだけで去っていく。会話のひとことを発するだけで、流れていく。コーヒーカップを口に運ぶその一瞬で、消えていく。きみは意識的なのか無自覚か、それを知らないふりをしていて、きっと、これからも変わらないだろう。
 でも、何度でも告げてあげよう。きみには、たったが一秒後しかない。生まれてからやがて死ぬまでの、長くて短い人生で、本当に自分が生きている時間は、そのあいだだけだよ。生を更新しているのは、毎秒毎秒のことなんだ。「やるなら今だ」とか、「明日やろうは馬鹿野郎」とか、そういうセリフが見受けられるけれども、それは、やっぱり、当たっている。実際には過去か未来しかないこの世界で、「今」というのは、わたしが言うところの「一秒後」とおんなじことだろう。そう、本当にきみが安心できるのは、今、または一秒後だけ。
 それなのに、きみはおめでたい。一秒後という「本物」には目もくれず、一時間後を、一年後を、ついには一生のことを、漠然と確信的に夢見ることができるから。きみのそれは、きっと、愛だ。きみにとっての愛、そのものだよ。自分のことを、漠然と確信できるところ、きみはそれだけで、十分に生きていけるというのだから、たいへん美しい生きものだ。きみはたいへん美しくて、たいへんおめでたい、人間のまんなかみたいなひとだ。
 なにひとつとして信じられるものがないのに、なにもかもを信じていられそうなきみを、ちゃんと、前と後ろを向いていられそうなきみを、わたしはこれからも、たぶん、好きでいるかもよ。