個人の判断による人身事故

今日も人身事故があった。
その報せに胸を痛ませながら、たった今乗り込んだ車両を降り迂回路の検索をかけている。
でも、仕事終わりに急ぐ場所も約束もない。スマホを仕舞い、どうしよっかな、と考える。


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こればかりはどうしようもないのだが、
線路に飛び込む人の気持ちはよく分かる。
毎日、その気持ちが分かる瞬間がある。
かつ、考えることと実行することには、明確で強い一線を確かに引いている。


自分自身の生に見切りを付けたがる瞬間は、人によって大きなばらつきがある。
自分の場合は、1日に2度、やってくる。
氷山のクレバスのように足下を掬われる瞬間が。
落ちるか?這い出るか?どうする??
迫られ、
でも、今日も今日とて、無事に生きている。

死ぬベクトルと生き残るベクトルが異なるが、その覚悟の強さは同じなのではないだろうか。


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人がそれを実行する最後のひと押しは、気候に依るのだとよく思う。さまざまな恵みをもたらす気象や季節のうつろいは、生きる理由付けにも、死ぬ理由付けにもなり得る。
晴れに雨に雪に、なんの抑揚もない曇天に。春の息吹から燃え盛る夏が枯れゆく秋の静かな冬に。
人身事故があると、こんな天気だからか、と少しゆっくり想像して、元の生活に戻る。
たしかに、こんな天気だよな、と思う。



でも、できるだけ長生きがしたい。
天寿を全うさせたい。
ひたすらに老いた俺を優しい人たちが見守ってほしい。
なんか、いいこと言ってこの世から去りたい。


まあ邪念すぎるとしても、
この矛盾はきっと両立するはずだ。確証はないけど。
両立することを立証するために、天寿を全うできたら。
今日もずっとこっちを選び続けてる。




個人の判断だから、人身事故は今日もある。
今日も、それを選んだ人がいる。
こんな日はしたくなるか、と想像する。
春の緑がいよいよ深まり、
郊外から来た急行列車から、雨の気配の匂いが運ばれる。
自ら死ぬ行為は、周囲の人の心を殺す。
自分の人生に殺人が遠いものでありたい。


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運休中の車内は人がまばらだ。
でも必ず数名は人は残るのが不思議だ。
慌ただしくホームへ降り、階段を下り、払い戻しへ改札へ向かう大勢の乗客をよそに、白色蛍光灯の下ぽっかりとした車内で、いつ届くかわからない報せを静かに待っているまばらな民の一人でありたい。