「あの日々」を生きて

 この文章は、通っている事業所で、訓練生の方々が作っている『就活通信3月号』のフリースペース欄に寄稿したものです。

 

 

 

 

 春の香りに満たされゆくころ、私はふたたび思い知るだろう。遠い昔に思いたかった「あの日々」は、今もなお、くっきりと、しっかりと、心にこびりついていることを。
 それはおよそ七年前のこと。東日本を、悪夢のような大地震がおそった。東北の海は激しくうねって、町に潮のにおいだけ残し、すべてをさらっていった。テレビは連日、心を引き裂く津波の映像を流し続け、限られた物資に人は群がり、街のネオンもきれいに消えた。正常ではない日々との消耗戦に、思わず目を閉じたくなるのは、至極まっとうなことだろう。しかし視界を真っ黒にしているあいだに、二十三区の外側で計画停電が行われていた。花見をする余裕もないままに、桜は吹雪いて散っていた。沸騰するようにひねり出された「絆」や「がんばろう日本」というスローガンは、しずしずと、かつ白々しく、心をざらつかせていった。
 そう、それは紛れもなく、東日本大震災のことだ。これは東京都民の私としての、東日本大震災の断面図だ。「あの日々」を振り返ると、よくもまあ、逃げださずに耐えられたものだと思う。いや、本当は、きっと、逃げたかったけれど、ただただ、逃げることができなかったのだろう。現に、今もなお、箱庭のなかで逃げようにも逃げられない、そんなイメージが頭のなかを駆けめぐっている。地上デジタル放送のテレビは、鮮明な映像でもって現実を粛々と映し続けたが、それを眺めながら、ひとつとして呑みこめたものはなんだったのだろう。スカイツリー、いま何メートルまで伸びただろう、と空を見上げていた日々と、放射線を溶かした雨が街に降り注いでいた日々とは、なにが異なっていて、なにが同じだというのだろう。あれから、なにが変わって、なにが変わらなくて、なにを背負って、なにを消しただろう。
 春がはじまると、きまって「あの日々」を振り返る。そして、忘れたい思いとは裏腹に、強く思い知らされるのだ。いまの社会がそうであるように、私の心もまた、忘れたふりをしながらも、深く刻まれた「あの日々」から離れられない。むしろ、東日本大震災を俯瞰して生きていられた東京都民の私が、東日本大震災と生き続けるには、この方法しか残されていないのだ。
「あの日々」の私は、いつまでも、現在の私を静かに見つめ続けるだろう。そして、いつまでも、答えなく問い続ける。お前は、あれから、強くなったといえるのか。弱さを知ったといえるのか。優しい生きものになれたといえるのか。