夏の副作用

 ふと、連絡をしてみようかと思い立った、が、やめてみた。ふと恋しくなった相手の顔は手に取るように浮かぶものの、どこか、今の私は閉ざした気分でいたのだ。これまでなら、すぐにスマートフォンを手に取って、なにかひとことを送っていたのだろうが、そのたったひとつふたつの行動が、はるか対岸まで泳いで渡るほどの気の遠さを感じてしまう。じっと、閉ざしていたい、なんて、どういうことだろう。小さな小さな私の箱に、小さな小さな心を仕舞い込み、直射日光のあたらない涼しい場所でそっとしていたい、なんて、私の身になにがあったのだろう。

 


 東京上空には今日1日、35℃の気温をひっさげた熱射高気圧が居座るようだ。朝の天気予報によると、この沸騰地獄は全国的なものらしい。もう、この街くらいだ、晴れ続きなのは。他の地域が、いかにざあざあの雨、魂を脱色させるほどの水量の雨が降りつけようが、この街さえ晴れが続けば、いかにも平和が続いている顔ができると思っている。東京は、どうしてこうも傲慢になっているのだろう。なのに、どうして、雨の降る余地などなさそうな透ける青空が、あまりにも清涼感があった。それにしても、この暑さは、天から降り注いでいるのか、はたまた地上から沸きあがっているのか、わからなくなってくる。

 

 窓辺から、水のにおいがした。焼けるほどの熱射に眩む街並みに、ささやかで遠い水のにおい。打ち水をしたわけでないのに、夏のにおいには水の成分が大いに含まれていそう。風が、外からやさしく吹いてきた。夏に吹く風は、どこか、その涼しい姿が見える気がして、少し楽しい。風はしなやかな光の線になって連なり、私の部屋へとすべりこむ。室内でひゅるひゅると軽く踊り、やがてどこかへ消えていく。このようなイメージのなか、もしかすると水のにおいは、あの風の線に乗って、粒子にきらめいて、私の部屋にまで届いたのかもしれない。

 

 窓を閉めて、四畳半ほどの一室にエアコンをつける。
 エアコンの冷気は、ただの冷気ではない。風の線なんて見えるはずがないし、かといって、冷蔵庫の涼しい空気ほどの単純なものでもない。それでも、適温のなかにいるのは心地がいい。しかしなんだか、たった窓一枚で夏をへだてただけなのに、その内側、小さな小さな一室は、驚くほどの無季節になってしまう気がした。季節のなくなる、ただの快適な気温が保たれただけの部屋。季節の煩わしさをシャットアウトするだけで、まるで私まで無機質な生活を送っているような錯覚を起こしてしまうし、夏にさしかかるにつれ、そんな時間は次第に増していくのだ。そろそろ、ここはいったいどこなのか、今は何時代なのか、私は何歳なのか、一瞬にして忘れてしまいそう。

 

 今日は外出する。人に連絡もしてみるし、写真も、1枚だけ撮ってみる。