春の満開によせて

 暦は定刻通りに春を迎えた。
 いくら異常気象が流行ろうとも、四季というより二季ですね、なんてニュース番組でコメントされようと、そんなこと、構うはずがない。どなたが造ったかわからない設計図のとおり、この一年もまた、四季は一寸たがわず巡りきった。春が抜け、夏が去って、秋がすっからかんにいなくなり、冬が消えてくれたあとに、燦然と輝く憂鬱の春に戻っていく。どうしてか春がセンターを切ることの多いが、たしかに春は、起点であり終点である要件を満たしている、気がする。四季に優勢劣勢などという序列はないにせよ、それでも春は、赤から青に変わりゆく信号のLEDを、車列の先頭からじっと見つめてなければならない、そんな気がしてならないのだ。


 春という季節の象徴、桜の花が、都内で満開になったようだ。「なったようだ」と濁しているのは、どこかぼやっと生活している副作用、みたいなもの。いつもニュース番組は見ているつもりだが、だいたい肝心の情報をこぼしてしまう。そのくせ空き時間に挿入されるような小鉢物ニュースは覚えていて、さらにはなんだっていい情報の、なんだっていい名前を記憶してみよう、と前かがみになってみたりしながら流してしまう。
 と、それほど注目していないということは、桜の開花は私にとって、ちょっとだけ重要なニュースなのだろう。しかし桜の花がどんな情勢か、今年ほど記憶に残らない年はなかった。そうだ。去年まで、私は桜が咲けばカメラを持って並木道や川沿いを歩いたり、わざわざやや遠回りをしてまで、桜の見えるスポットを通過したりしていたな。それが、今年は、見上げることもなく、ならばわざわざ桜スポットへ出かける気もさほど起こらない。どうしてだろう。


 結論は、おそらく出ている。春が嫌いになったのだ。
 好きでない、のと、嫌い、は意味が少し違う。前者は好意の残り香が漂うが、後者は忌避のにおいがある。忌避をせざるを得ないものは、たいてい心の奥で執着するものと近しい間柄にあって、裏返しの想いがこもっている。その文脈でいうと、私は、春の効力に向けて執着心が駆り立てられるのだろう。
 自分でも漠然としているが、春を嫌う理由には、春の気温上昇による心身の解凍が、憂いとして表れることの疲れがある。または、春の象徴たる、あの泡のような花の、桜の花の美しさへの無力感がある。それまでは平気でいられたこの季節を、今年の私は、どうしてか、見過ごすことができなかった。


 時系列的にすると、少しわかりやすい。長い冬がようやく消えていったあとには、緊張を強いた気温が緩やかに上昇していく。そのころに私たちは、心身の麗らかさや自由さを会得できるのだ。ああ、私って、私たちって、ちゃんと生き物だったんだ。頑なな心、戒律で縛り付けられたような生理現象の不自由も、気温さえ取り戻されれば、私たちはフットワークが軽くなれる生き物なんだ。そんな風にして、私は、私たちは、春を感じ尽くすだろう。
 しかしその後に待っているのは、快晴とはやや離れてしまう、厚い曇天だ。春を迎え、自由を会得した私は、私たちは、「憂う自由」さえ身にまとってしまう。なんだかわからないが、不安だ。なんだか妙に、哀しい。どうしてこうも、寂しい。心を占めるのは、別れもないはずが、なにかの部分と日々死別しているような、荒涼とした想いだ。エンドとスタートが交差する季節は、満ち溢れた感傷を持て余す季節でもあったのだ。
 そんな静かに散らかった心のまま、ふと見上げれば、桜の花が。上空から愛を降り注がんばかりに咲き誇るそれに、「ああ、どうしてあまりに美しい」と、口に出さないまでも、頭の中はその台詞でいっぱいになるだろう。そこに私は、私たちは、CG空間に紛れ込んだような虚構の脱力感と、彼岸を知って此岸を痛感させられたような精神の諦めが、目の前で満開に展開されている、そんな気になってしまう、こともある。
 桜の花を見上げたときに、今年の私は、果てしない無力感に苛まれた。どう振る舞おうと、どう付け焼刃に生きようと、この美には到底かなわない。翻って、私はまだ、美しさたる要素を知らない。そうやって、桜を通して、私が私に迫っている。やっぱり、春は嫌い。嫌いだ。


 ひょっとして、それも架空の発想なのかもしれない。春の、情緒的な渦に巻き込まれて、少し感傷的な側面に遊びふけっているだけかもしれない。そう思えばちょっとは救いがあるだろうか。
 でも、ああ。あーあ。昨年までは、ちょっと遠いものとして春を過ごせたのにな。内面的な今年の私は、自分へのメンテナンスを、より一層、施さなければならない。諸々のこと、なんだっていいはずなのにな。