創作『朝食』

 ぽかんとした朝焼けがカーテンに溶けていく音を聞いた。その後、数分後だろうか、数時間後だろうか、フライパンにベーコンを焼いているきみの気配を嗅いだ。もしかしたら、冬の朝だというのにスリッパも履かず、暖房も、ストーブのまわりを包むほどの暖気しか与えていないのかもしれない。ねえ、寒いでしょう。ベーコンエッグ、美味しそうだけれど、もっと暖かくしてご飯を作っていいんだよ。
 私が寝返りを打った5秒後のこと。きみは淡いパステルグリーンのカーテンを開け、朝陽を取り込んだ。穏やかな朝焼けの熱は、カーテンとともに畳まれた。途端に、部屋は鮮やかな色を付けていく。超半熟のエッグがぷるぷると震えながら、皿に乗っかって、テーブルの上に移動する。ぷるぷると、私に食べられるのを怯えながら待っている。ベーコンの健康的な油が朝陽に照らされていて、ガラスのコップに注がれた白いミルクも、傍に置かれて温くなる。テレビをつけていないのに、寝室の隣は、妙に陽気な朝に思える。今思えば、朝陽と、朝食と、そしてきみが、なだらかにまっすぐにそこにいてくれて、それだけでも喜ばしいことなのだった。
 上体を起こし、きみに挨拶をする。おはよう、と告げるだけなのに、なんと愛おしくて惨めなんだ。私の、性別のわりに低く潰れかけた声は、くすぐったいほど跳ねた声で返る。おはよう。ああ、きみは、なんてかわいらしいんだ。かわいらしい人は、誰の手にも負えない。誰の胸にも受け容れられないから、だからかわいらしいきみは独りで生きているんだ。

 


 一昨日。私の目がさらに見えにくくなったことをきみに告げると、すぐに自宅の最寄り駅まで来てくれた。雨がぼとぼとと落ちる夕暮れ時のことだった。そこできみは、大学はここから通う、と言い切って、キャリーバッグをガラガラと転がして、団地の3階、独り暮らしの私の部屋に転がり込んだ。自宅に着くや否や、じゃあ、作る、と張り切って、はじめて私に料理をつくってくれた。思えば、新歓で出会ってから2年、料理を振る舞うのは私の方だったから、はじめてのきみの料理に少しワクワクしたものだ。
 はい、お味噌汁、と出されたときは、お椀ひとつの夕飯というのは少し寂しい、と小言を抜かしたものの、口に入れたとたん、まざまざと思い知らされた。温かく柔らかいお味噌汁の味を確かめながら、きみが溢れんばかりのやさしさをもっていること、どこまでも私の痛みに手を宛てようとしていること、そして、苦しいほどのかわいらしさを抱えていることを、私は拾い上げてしまった。私は涙をこらえながら、そんな姿を見て、きみは泣いていることを感じ取った。

 

 昨日。雨が1日中降りしきり、会話もせず布団に横たわった。傍らにはきみが眠っていて、だからこそ、訊いてみた。彼はどうしたの?置いてきた?別れた?と、ひとつ訊てしまうと、いくらでも質問は出てくるのだった。当然、返事は予想していなかったが、ひとこと、もう別れたよ、と小さく漏らしたのを聴いた。そろそろ殴ってくるかもしれない、そんな姿はみたくないから、と続けて。
 私は思わず、きみのなめらかな髪を撫でた。やさしい頬に手をやると、ところどころ冷たいから、ああ、また泣いているんだと知りながら、私はまたも涙は出なかった。それよりも、きみの髪を撫でた途端に激しく生まれた、えも言われぬ感情、爪を立てたくなる衝動、肌のやさしさへの欲求への戸惑いを収めることで精いっぱいになっていたのだ。
 夜が降りかかり、深まるころ、寝室は海底に沈みながら、より孤独を増していく。思わず、きみの手を探してしまった。ああ、見つからない。どこにもいない。どこにいるのだ。布団の中を、掻くようにして探し出した。
 いつまでも独りだろうか。本当の独り、掠れて褪せた者にとっての独りは、かわいらしい者の哀れなさまが見いだせない分、滑稽に思える。
 いよいよ恐怖心も芽生えたころに、きみが私の手を、どこか知らない場所へ連れて行くような、強い力で掴みだした。身体がこわばる。緊張が走る。しかし、直後に勢いよく弛緩をはじめた。
 ひとつ、心の内につぶやいてしまった言葉が、身体中に響く。だめなんだ。だめだったんだ。言葉はひとりでに走り出す。私は、わたしたちは、独りのなかで、独りを確信し合うしかないんだ。もう、だめなんだ。手と手が触れ、足と足を撫で合い、ついに、わたしたちの身体と身体を近付き絡ませはじめた。一方で心は、揺すり合いながら、各々のうちに離れ閉じこもっていく。
 もはや、視覚なんて問題ではなかった。触れるたびに、ああ、死んでいく、壊死と別離がはじまる、と嘆きながら、私の涙はとめどなく流れ落ちた。君は泣いていただろうか。そんな気配はしなかった。冬の雨に打たれた街の、さびた団地の片隅で、寒さの感覚を捨てながら、わたしたちは重なりながら嘆き合う。私よりもかわいらしくて、私よりも温かく、だから私よりも不幸なきみは、視界に入らないからこそ美しい。美しいからこそ手放さなければならない。はたして、私は不幸といえるだろうか。


 今まさに、別れを告げるたび朝陽が滲むこの部屋で、きみが用意したのは、私の好きな超半熟のベーコンエッグだった。私の目がぼやけているうちに、輪郭だけが去ってくれないまま、それでも輪郭だけは残していなくなるきみと、手を合わせ、いただきます、と告げた。(終)

 

 

 

日本シリーズ第3戦が終わってから勢いで書きはじめて、
今まさに勢いで書き終わりました。
掌編も含めて書きあげたのは5年ぶりじゃないか。
あららら……。