「言葉は想いを縛り付ける」というはなし

ここ最近の反省ごととして、
思っていることをSNSに載せすぎ、
ということがあったため、
このごろは、持ち歩きに適しているノートに
悩みや考え事をつらつらと書き連ねている。
それは近年、私が心がけていることで、
自身に転換を促したいときに使うやり方なのだ。


気が付いたときにすぐやることにしていて、
たとえ電車のなかで立っていようが、
バスに揺れていようが、
人と待ち合せているときであろうが、
読んでいようが食べていようが
聴いていようが見ていようが、
お構いなしに、気付いた瞬間のことを書く。


そうして、いざやってみて、
1日の内容を読み返してみると、
それが、なんとだいたい1日につき10頁は費やしていて、
私の頭のなかは、予想以上ぐるぐる回り、
また伝えたいこともあわあわと忙しなく、
そして、過度に悩みながら過度に悩ましいことを知った。
つくづく、過度、という言葉に尽きる。


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話は少しずれるが、
大学時代の友達が話していたことで、このようなものがある。
伝えたいことを、言葉にした瞬間、
その想い・考えの自由を保障できない、
想い・考えの自由さえ剥奪しかねない。
それは、とてももどかしいことだ。

そう述べている彼を見て、
ああ、彼は真摯だなあ、とつくづく実感したのだ。


自分の中に在る想い、というのは、言葉にした瞬間、
言語化されたそれ自体に巻き込まれてしまう。
想いが言葉に気を遣ってしまい、
伝えたい想いが縛られ、制限されてしまう。


たとえば、
「私の体調が悪いのは、○○が不調だからだ」
と言えば、○○以外の要素が除外されがちになる。
または、
「私は××を大切にしている」
と告げることで、××にばかり焦点が当たってしまう。
そして、
「私は△△が好きだ」
と伝えても、そのフレーズ自体が想いに追い付かず、
何分の一も想いを伝えられていない。


彼は、また私もまた、それをもどかしく感じ続けていた。
主に、コミュニケーションもさることながら、
自身の研究をするときにおいて、
薄墨の曇天が一面に広がるようなばつの悪さで、
常に葛藤していたのだ。


私は、彼のそういった真摯さを尊敬している。
しかし、彼のもつ、言葉と想いの関係性への真摯さ、
それが、現在の彼を苦しめているそのものであることも、
「否」とはいいきれない。


話はまた少しずれるが、
その人の、大切にしていること、信条、尊重の対象が、
時に、本人を脅かし、苦しめる主体になることがある。
私もまた、その非情さ、虚しさを噛みしめながら戸惑っている。


はい、戻ります。
想いは、すべてを伝えられない。
または、外縁部のものしか伝えられないかもしれない。
ただ、伝えることが悪ではないことを信じていたい。
「お願い信じさせて……。」が正直な気持ちだ。



以下、前述したノートから引用して、記事を終える。
その文章もまた、すべてではなく、
書き連ねること自体、すべてではないから、
どこまでも続く気になって、嫌になる。




言葉にすることによって、
言語化することによって、
その想いが、硬直し、縛られてしまうことはないだろうか。
大学に入って、ものを知るようになった。
言葉の使い方、表現の方法が、
それ以前より良く分かるようになった。
考えていること、抱いている想いを、
言葉にし易くなった。

ただ、もう一方では、
言葉にしたことで、分かった気になってしまった。
自分の考え、想いを知った気になった。
それが全てだと、思考停止や暗示の類の呑まれてしまった。

実際には、もっと、複雑で、困難で、うまく処理できず、
付き合うにしても苦しくてやりきれないものであるはずだ。
それを言葉に閉じ込めることで、
分かりやすく、扱いやすくなる代わりに、
発展性がなくなり、物の捉え方の多様さが失われた気がする。
これではいけない。
これは、変えなくてはいけない。
「わからない」と言わなくては。
怖がってもだめだ。