「美」のはなし

なぜ私は音楽を聴くのだろうか。
音が始まって数分間ガチャガチャ鳴り続け、
やがてサッと引いていき、
真っ黒な無音が数秒あったあとで、
またトチ狂ったような轟音がはじまって、
そう考えたら、
なぜこんなに、
私は取り憑かれたように音楽を聴いているのだろう。



「美」というのは、本来、畏怖を抱くものであるはずだ。
決して、断じて、苦労や劣等感の消費にも、
話題のネタにも消費されない、崇高なものであったはずだ。
しかし、私の生きる現在には、
もはや「美」をそれのまま揺蕩わせることも許されず、
苦労や劣等感、話題のネタとして消費され、
ただのモノの一部に成り下がる。
つまりは「美」を嘲け笑うこと、
使えるか否かの判断に上らせること、
その行為に一切の躊躇いや戸惑いを人間に抱かせない、
それほどの可愛げのない呼吸の気配もない時代を生きている。
もはや、生きているのかすら実感を得ないまま日々が過ぎる。



青々と茂る雑草をぷちぷちと引き抜き、
まったく可愛げのある音を立てて毛細血管が切れていくような、
「される」ことのないがために、
「する」ことの罪悪は圧を高め、
毎秒毎秒死んでいく、殺されていくような、
心地も血の気を引く生の実感のなさが、
日に日に成長されていくのならば、
生きる現在は救いがない。
「美」もなければ優しさもない。



苦労や劣等感、
話題のネタに容易く利用されるようなものを、
「美」と形容してはならない。
断固として拒否しなければならない。
しかし、
その程度の意志を抱くことさえ困難になってしまった。


誰か、私を叱ってほしい。