宛先はドトールに

安くて居心地のよい喫茶。日本津々浦々に繁殖する休息の旗手。といえばドトールのことである。ところでみなさんは、ドトールカードをお持ちですか。そのまえに、ドトールに通っておりますか。そもそも、ドトールを知っておりますか。

私は昨年秋まで、ドトールに通ったことがあるのは、指をひとつ、ふたつ、折るくらいのものだった。ひとつ、ふたつ、で事足りる回数というのは、つまり私に喫茶の場は必要なかったのだ。喫茶がなくても生活は回っていた、というよりは、喫茶を必要とするほど、生活のコマは回りはじめてもいなかったのかもしれない。


そんな私も、今やドトールの会員だ。ポイントもじゃんじゃか稼いで、あと1,000円で、来年度からはゴールド会員に昇級だ。ゴールド会員になった暁には、付与率が10%にあがるうえに、グリーン車が生涯無料のパスが郵送される(嘘だ)。


安くて居心地のよい喫茶。居心地のよいわりに安い喫茶、ともいえる。そんなドトールが私は好きだ。よくいわれる、「コスパがいい」というものだ。ポイントだって貯まるし。しかしかつて、古舘伊知郎さんが「コスパがいい、だなんて、作り手送り手が語るべき言葉なのに」ラジオで語って以降、少し憚られる。言葉は精緻な生き物だと思う。


話は逸れたが、私はドトールが好きだ。この言葉遣いはきっと正しい。人が何者かを好むことに慢心はいらない。きっと。だからドトールが好き。しかし業績は傾いてきているという。その背景には、コンビニチェーンの展開する挽きたてコーヒーが幅を利かせているから、だそう。

何度か私も利用したことがある。自分で容器を手にしてレジへと向かい、自分で機械にセットして、挽きたてコーヒーの完成を待つ。香ばしい匂い。あたたかい容器。火傷する舌。やってみて、毎回、全部の工程にワクワクする。でも、やっぱりドトールが好き。私はコーヒーを飲みたいわけではないらしい。220円のこじんまりとしたカップをくゆらせて、1,2時間ほど無になることを、私はより求めている。


無になる。私は無にならなければ、今の生活が回らない。矯めて矯めて、放つためのひととき。勢いよく突っ走るための、ネジを引き尽くすチョロQ。内定を頂くためのドトール。心なしか萎れる思いがする。が、私には必要なのだ。

その必要と語る無のひととき、私は何を得ているのだろう。何も得ていない気がするが、それはだって、無になりたいのだもの。ずっと、「無の振る舞い」がわからなかった。目が覚めてまた瞼を閉じるまでの日中帯を過ごす以上は、何もしないことが、本当に何もない人間に思えて、いたたまれない。生活しているのかな、毎秒生きているのだろうか。そんな自問自答が続いていた。

しかし、無でいる時間は、何も得なくてよいのだ。起きていようと、生きていようと、何もなくていいときは、何もしたくないときは、そのままでいることが、なによりの成果、なのだろう。


そうして自己弁護して、またドトールの220円のこじんまりとしたコーヒーを注文するけれど、許してね。ゴールド会員になってもいいですか。間違っているのでしょうか。