なんでもよくなっていいのかよくわからないけれど

‪とてもじゃあないがすべてを語れない話題を書いていく。だいたいの輪郭しか伝えられないことは、そもそもこの場ではなくて面と向かって伝えられる場面において持ち寄るべきではあるけれど、まあそれでも、まとまっているものはまとめて出荷したいからここに書きます。‬


私は長らく、「生きるってなんだ」という考えを巡らせていて、今生きていることとか、これから死んでいくこととか、かつては生きていなかったこととか、とにかくさまざまなシチュエーションを繰り出してはリアル感を掴んだつもりで考え続けていた。その対象は私にとっての、でもありあの人にとっての、でもあり、草花虫雨、その他もろもろのすべて、でもあった。

せっかく、針が身体中に刺さるような痛い思いをしながら考え続けたけれども、当然、答えが出ることなどまったくなくて、茫然自失とする間も怖かったために、「ない」を消して、「ある」を見出し続けていた。神経衰弱のカード、右のあの1枚をめくればあがれるものを、左の変な1枚をめくったためにいまだぬけだせない、そういうもはや遊戯をしていたのかもしれない。もはや知る由もない。


で、それでふいに、そんなことはなんでもよくなった。いまは楽しくないな、と感じてから、もうこれ以上に楽しくないことはやめていたい、とコロッと思えてからのことだった。なんでもよくなった結果、「答えがあったらなんとなく生きているわけがない」と、「なんとなく生きているからなんとなく生きているんだ、それだけか」と、それでこの考えを締めくくることにした。


なんだか、あるときダラっとしはじめてから、人とか物とか、みんなそれぞれわずかに可愛く思えてきたし、それぞれざっとなんでもよくなった。不気味な心持ちだ。針で刺され続けていたものを、突然にふわふわしたままの空間に放り出されたようなものだった。ふと我に返ったときには、「みんな各々で楽しく自由にやっていてくれ、好きにしていてくれ」と言っていた。頭の中で。街中で人を見かけるたびに、たいして優しくもなく荒くもなく静かでもなく、ただそう口にしていた。またハッとしたときには、なにも言っていなかったし、街中にいても、行き交うそれぞれの情報に、なにも思うこともなくなっていた。それがそこにある、それだけになった。


こうなったいま、それまで、どうして私に行き交うもののすべてが、私にとって必ず関係があるものだと信じていたのか、わからない。その根拠を知りたいわけでもなくて、もはや「そうだったとき」でさえもなんでもよくなっていて、身体も頭もカランカランに軽い。

でも、だからといって「どうでもいい」わけではない。あくまで「なんでもいい」にその軽い感覚があって、だから厭世に傾かずに、「なんか、そうなんだね」と相槌をうつくらいのものなのかもしれないけれど。

私とA〜Zさんに関係はない、だからといって繋がっていないわけではない心地だ。とりあえず同じ通路ですれ違ったし、同じ電車に乗っているし、喫茶の同じ店員さんにお水を汲まれたから、それくらいは同じなのだと思う。でもそこから先に意味はないね、でももしも、そこで楽しい気持ちが交わせればそれはもう友達で、インポートエクスポートのペアになっていく。そのつもりはもともとないから、そうなるには、なにかの偶然が起こってのことだろう。


偶然、なんとなく、それで片がつくなら、もうそれでよろしいのかもしれない。というか片がつきそうだ。人やものを好きになることの意味は後付けの綺麗なもので、実はなにも中身がなくただ好きになるのかもしれないし、反する感情にもそういう要素があるなら、偶然よかったりだめだったりしたまでだといえる。その連続で歳をとっていく気がする。なんとなく歳をとる。なんとなく偶然にめぐり合わせて、離れていって、少し揺れたりして、ああ嬉しい苦しいとするのも含めて楽しくなったりする、ものだったりしてな。

こういう心地になっていまいちばん嬉しいのは、とにかく街中にいても電車内にいても、そこにいる知らない人たちの視線が、何と思われているのか、なんでもなくなったことだ。それだけで他は保留にして、どこか遠くの美術館にでも行きたくなる。少しだけ怖い。