流れ星のようなものを

‪私の伝えたいこと、さらには伝えるそのニュアンスが、今ある言葉と言葉のそのあいだのものであるから、どうしても言語の外での伝達に頼ってしまう現状だ。‬


‪たとえば、私は「祈る」という行為に貴い想いを抱いている。「祈る」こととは、人を、人の幸福を、どのような距離からでも祈りつづけることだ。
それは「好き」や「愛している」とも綿密に繋がっているが、しかし決していずれにも取り込まれない、呑み込まれないものだと認識している。愛している想いが強いから祈りも強いとはいえず、遠い関係だから祈りは弱い、わけでもないからだ。‬


‪言葉と言葉のあいだにあるもの、歯間にあるものは、「好きだから祈るんじゃあないの?」という問いに弱い。祈りが好意を超えることもあって、「そうでもあるがそうではない」から。‬


‪こうなると、伝わるひとと伝わらないひとの差が大きい。皮膚感覚で伝わるか伝わらないかのこと、それは性格とは異なる「相性」なのだ。しかし、私は、そのいずれかの人が好きだとか嫌いだとか、そういった話をしているわけではない。

‪伝わったときも、伝わらなくても言語で理解しようと寄り添ってくれるとき、そのいずれのときも嬉しくて、私も目の前の人のために、努力して言語の外の想いを伝えていたいと思う。


‪でも、やっぱり、皮膚感覚で伝わったら嬉しい。その副作用で、伝える努力を怠ってしまうけれども。その点、伝わらない人には、一生懸命言葉を尽くせる。その作業でわかりあえる。副作用は、だからこそ、相手との肌寒さをほんの少し、感じてしまうことだ。‬


‪私の言語の外にある想いは、私にとって大切なことだ。これは、誰にとっても体内の電気信号のように、そこに在るものだと思う。その一端をどうしても掴みたい、手で触れたい。その熱が高まってきたのだ。‬


‪あともう少し。頑張ろう。‬