東京に帰る

2019/11/14

盛岡から戻りました。
祖母を無事送ることができました。
悔いはありません。


盛岡はマスクを外すと空気が澄んでいました。
雫石川を眼下に通夜を行い、
通夜払いでは、久々にお会いした親戚と
岩手の酒「あさびらき」を何本も空けました。

そのとき、ある音源を会場に流しました。
数年前に自身の生い立ちを聞いた時のものです。
亡骸のそばに祖母の声、
本当に眠っているように思えました。
今でもそんな思いがするのは、
まさに身体が失くなる前夜だからでしょうか。

盛岡の秋は寒く感じます。
翌朝は手足が冷えました。
雨がしとしと降るなか、火葬。
1,000℃を超えて焼かれている想像とともに
窓から見える木々が赤く染め上がり
強風に晒された様子を眺めていました。
火葬を終え、骨を拾い、
こんなに小さな骨壺に収まるのかと。
それ以上の考えは浮かばず、
しばらく骨壺を見つめていました。

通夜の実感はこのとき確信に変わりました。
身体が失くなるというのは
もう実感を得られないということなのですが
却ってどんなときにもそばにいる
そういう思いにもさせるのだと。
身体が失くなるというのは、
残された人が、
故人を自由に想えることなのでしょうか。


東京は空気がガスっぽく、
ビル群が密集しています。
生まれ育った街のこの匂いは安心します。
ただいま戻りました。
仕事とピアノ、生活に戻ります。