「三日坊主」の言葉もあるなか、
私には継続して何かに取り組んだ、という経験が乏しく、
新しい物事に手を出しては、本当に3日でやめてしまう。
しかし、今日まで続いていることが、2つある。
ひとつは、3週間続き、
もうひとつは、2週間を終えたところだ。
「しょっぼ」と笑ってはいけない、
私にとっては、2週間3週間続いたことが、
おそらく片手で数えても余ってしまうほどの大きな達成なのだから。
で、ひとつは筋トレ。
お風呂に入る前の軽い筋トレが、やっと4週目に入った。
身体も徐々に変わりはじめ、
鏡の前で「おっ、絞られた??」とニヤニヤする姿も目撃されるように。
今回はもうひとつのほうのはなしをしたい。
もうひとつの続いていること、2週間前からはじめたことは、
新聞コラムの書き写しだ。
そのコラムは、朝日新聞朝刊で連載されている、
鷲田清一の『折々のことば』。
新聞を読む癖はついていないが、
起き抜けに、家のテーブルに置かれた朝刊が目に入ると、
そのコラムは読んでおきたい、
と、気が付くと前のめりになって目を通している。
それなら、と、14日前の今日、
「ノートに書き写してみよ!(続かなかったら残念!)」
と、逃げ場を作りながらちっさく決意をし、
嬉しいことに、今日まで続いているのだ。
毎日の書き写しをすると、
心に鋭く侵入してくる言葉、
染みていくように入り込む言葉、
しっくりこない言葉、
異物をかみ砕いて取り込む言葉、
と、様々な言葉に遭遇していることが分かってきた。
今回は、私がとくに心に入り込み、
心の裏に固定されたフックが外れず、
いつまでも未練がましく読み返す言葉を、2つ、紹介して、
この記事を終える。
"そして約束してください
もう二度と私たちを産まない、と
これ以上死にたくないのです"
――三角みづ紀
「お母さん。/いまから私たちにんげんはあなたの胎内に帰ります/微笑んで/おかえりなさい/と云ってくれますか」、「腐敗する前に/はやく/私たちを受け入れてください」という言葉に続けて。この、いたたまれないほどの悲痛な声がここかしこから聞こえてくるのが、<現在>という時代なのだろうか。詩集『カナシヤル』から。
(2017年7月11日 朝日新聞朝刊)
この詩集が読みたい。
胸を掴みかかっていつまでも離さない。
紹介された詩の一編を目にして、
論理より先に、感覚的に、内面的に捉えた気になった。
でも、それを自分のなかに知ったのは、
哀しいこと、切ないこと、まるで報われないことのようにも思える。
従う心と抗う心、哀しみのなかに埋まる心と脱出を急く心とが、
互いに引っ張り合う。
"悲しいことを泣き叫ぶ以外の方法を
もっている生き物に生まれたかった"
――最果タヒ
悲しいから泣いている? そんな解釈はひもじすぎる。悲しみはもっと艶やかに滲むもの。「赤い色」に惹かれて抽象的な絵を描く人がいるように、「りりらん」という音の響きに誘われて不思議な文章を書く人がいるように。「もやもやしたものをもやもやしたまま」手渡そうとする言葉は、次行へのありきたりの予感をたえず裏切る。詩集『死んでしまう系のぼくらに』から。
(2017年7月16日 朝日新聞朝刊)
最果タヒ氏の詩は、
ごつごつした角ばる言葉の流れでありながら、
心に温水のように染み込んでいく力がある。
しかし全裸の角ばる言葉であるため、鋭く繊細、鋭敏であり、
心の内側で暴発しはじめる。
とくに、悲しみを扱った文章は、
あまりに心の内側を荒らすので、恐怖感を抱くほどだった。
しかし、哀しい気になるとき、この一節を見返しても、
「悲しみを泣き叫ぶ生き物で生まれてきてよかった」
とさえ思えたのだ。