午前3時を過ぎた。
私は、急激な衝動に曝されて、
目覚めたくもない方法で、
目覚めたくもない時間帯に、
睡眠状態から引き戻されてしまった。現実に。
頭のギアが入らない。
いや、操業には時間が早すぎるから、
それはよいことではあるんだけれども、
それにしても、脳がまだ暖まっていない実感をもっている。
書くにはふさわしくない条件がそろっているが、
どこかに残したくなったいくつかのことを、
できるだけ書こうと思う。
部屋を綺麗にした。
引き出しの中のノート類の整理から、
床に散らばったゴミのようなモノの処分まで、
ついでに本棚の総入れ替えまで、
気付いたことを片っ端から実行してみた。
その時間、なんと9時間。
暇でないとこんな時間の使い方はできまい。
掃除機で綿埃を吸い取り、
雑巾で床を磨き、
すべて終えたあとで部屋を見渡すと、
私の部屋には床があったことに、真面目に驚いた。
「そうか……忘れていたけど、床ってあるんだ……」
ちょっと意味が分からない台詞だけれど、ニュアンスだけでも伝われば。
撤去された家屋のあとに新築が建つと、
昔の家のことを思い出せないのと同じで、
綺麗になる前の、ゴミ屋敷のような様相の部屋がどんなものだったか、
まったく思い出せない。
たった9時間の時を引き戻せばすむものだが、
「近くにいろんなモノがありました」程度の、
誰でも言えてしまう一般論レベルに引き下げても、なお記憶が遠い。
でも、たしかに近くにいろんなモノがあって、
ちゃんと位置関係を認識すれば、それはそれで便利でもあった。
リモコンはあそこで、あの本はそこで、充電器はここにある。
と、動かなくても、ただそこにあったら、わりかし不自由ではない。
でも、それだと、
そうでなくてよいものも、ぜんぶそこらへんに置いてしまう。
鉛筆入れやノート、読み終えた本、カメラのフィルム。
それらはどこかに保管なり整理するものであって、
そこらへんに置いていいような、日常的なジャンルには入らない。
しかしでも、ついついポンポン置いてしまうのは、
「他もそうしてるから」
を言い訳にしているところなんだろうな、と振り返って思った。
そりゃあ、そんな精神で部屋にいたら、
精神衛生的にはよくないというのがよくわかる。
そこまで言い切ったなら、今度こそ部屋の清潔をキープしろよ!
って感じだ。
アナイス・ニンという作家の、
空想的な作品、『近親相姦の家』を
図書館で借りて、読んでいる。
この本、かなりおすすめなので、
時間と心の余裕のある人はぜひとも手に取ってほしい。
ただ、本当に時間と心に余裕がある人だけだ。
とても難解な内容だからだ。
新書や専門書、そして学術書を読むと、
その言葉遣いの横文字度合いや立体的な文章の連続に、
頭が汗をかく。
『近親相姦の家』がこれらと同じ文章だというわけではないが、
しかし、読んでみると共感するだろう、
その佇まいからして、とても頭を使う。
文章としては平易な言葉遣いであるのだが、
いや、それ以前の、
言わんとしていることへの自信の強さ、意思の強さ、
その厳然とした、誇り高い姿に、
少しだけめまいがする。圧倒される。
論理では解き明かせないような言葉の数々があって、
しかし思考回路とは別の回路を働かせる、までもなく、
自ずと感覚的な分野が驚き、喜びだす。
その驚きと喜びが、同じくらいの熱量で恐怖を呼び寄せる。
『近親相姦の家』の書き出し部分に、
以下の文章が記されている。
朝起きてこの本を書きはじめようとしたときわたしは咳をした。なにかが喉から飛び出した。わたしは絡みついていた糸を切って引っ張りだした。ベッドに戻ってわたしは言った……心臓を吐き出したのだわ。
それは、読み手であっても同じかもしれない。
すべて読める自信がないが、
文章量はとても少ないので(文章量に比例しない内容だが)、
時間をかけて読み切りたい。
インターネットの空間に、ぽつぽつと言葉を吐き出す。
それは、私の心情や考えを吐き出したことになるが、
それら言葉の、
「よし、外に出してしまっていいや!」
と判断された言葉の、
その大多数は、おそらく、本来、
私がひどく大切にしなければならない貴重な言葉なのだろう。
不特定多数に見てもらう、知ってもらうためにある言葉ではなく、
目の前にいるたったひとりに対して伝えるような、
もっと丁寧にもっているべき言葉なのだろう。
急激な衝動、
目覚めたくもない方法で、
午前3時前に起きてしまった。
こうして文章を書いているうちに、午前4時を過ぎてしまうだろう。
起点は、激しいリビドーでの起床だった。
むしろ夢だと思いたかった。
深夜のちょうど最も肥えた時間帯に、
リビドーに苛まれて、身体中を震わせながら目が覚めた。
しかし目を開くや否や、血流に高い濃度で入り込んだその衝動は、
気化されたように、おとなしく、いや、完全に消えてしまった。
悍ましいものだった。
カルピスを原液で飲むようなものだった。
リビドーは、ふだん、大量に薄められているのだと知った。
その、薄めるものの多くは愛情なのだろうが、
また、私に限るのか普遍性があるのか知り得ないが、
薄められていないリビドーは、心を抉り尽していくことを痛感した。
このまま眠れる気がしないが、
布団に入れば、少しくらいはいけるかもしれない。