『アリッサのこと』土井政司・著

変わらない日々が何遍も続くと、いつだったか、誰かから約束されていたはずだった。それは毎秒ごとに褪色を重ねる「生」から目を背けるための対処療法でしかなかったというのに。

『アリッサのこと』は表題作と『市街地の犬』の2作が収録されている。サッと読む分には、両作とも平易かつ抽象的な書き口で展開されているが、読んで字の如く読み進めてしまっては、こんな感想をもつだろう。
「で、何がいいたかったの?」
いったい、何を主題に何を書いたものなのか。わからない。どういうこと?


しかし、
ほんとうは、読んだ人、みんな感じ取っているんじゃないか。日本語を読めて、義務教育を終え、ある人は高等教育も受けたり、専門知識を豊富に持参して働き通す、文化的な生活を営む、そんな一人ひとりが無意識に着用している「知識」「文化」「教養」「倫理」「技能」等々を一枚残らず脱ぎ捨てると、いったい何が残るというのか。いや、必ず残る「何か」がある。なぜかこの世に産み落とされてから、なぜかどこかで閉じる生命は、なぜ、これからも本能的に維持せんとするのか。なぜ人間は生命に危機が及ぶ際に、先に挙げた「衣服」のまったく及ばぬ速度と正確性でもって、自身に気づかせようと働かせるのか。


そんなもん知るか。
知れるわけがなかろうに!
なんか、そんなもんなんじゃないの?
でも、断じて、それはある。


『アリッサのこと』は、そんな、人々の頭上に無数に浮かぶ究極的なハテナ、そのまさに「何か」を描写した作品なのではないだろうか。
なので、直に触れることは不可能かつ自身に備わるもの、そのものについてのみを取り出し、丁寧に仔細に模写する試みを追体験していくつもりで読んでいくと、とってもぞわぞわとする。生活面の些細な出来事や煩いごと、自分の身の上が追い詰められていく気になっていく。自分の背後に伸びる影が、遂にこちらに手招きするかのよう。生まれてから死ぬまで解き明かすどころか、人によっては周縁部に立ち寄ることなく一生を終える、全知全能の神にでもなった気でいるわれわれが一向に歯が立たない、われわれの先にありわれわれの根底にある「何か」が、いまここに「ある」ことを、まっすぐ、見ようとしてしまいそう——。


心にあるうっすらとした不安や、漠然とした虚しさはどこから来るのだろう? なぜこんなに、いつも緩やかに哀しいのだろう。
せせこましい日々や人間関係? 赤字が続く家計? この縮小が続く日本社会か、内向きに回転を速める世界情勢??
じゃあ、なぜそれらで、不安になるの? 虚しくなるの?

いったい、誰が、何が、あなたを哀しませるのでしょうか。
哀しんでいたほうが、絶句するよりまだ優しいから?
あなたの内側に広がる世界をプロジェクターで投影したものに「世界」と名づけるならば、あなたは世界でひとりではない。あなたには、「何か」がずっと、ここにぴったりこびりついて、一向に離れていないのだから。

敬虔

もともと、キリスト教系の大学に通っていた。
そこに本格も嘘もないんだが、あの大学は実際本格的で、敷地の中心に新築のチャペルが擁してあった。中に足を踏み入れると、その足音の一つひとつがチャペル内によく反響する。学生の頃にはちゃんと気づかなかったが、その足音ですら反響音がなんと美しかったろう。たまたまそう綺麗に聞こえた、というより、どんな音からも美しい音色のみを摘み取ってから、室内に注ぎ返している印象だった。音響の意匠に凝ったのではないだろうか。

薄くて柔らかで上質で、いつでも少しひんやりとする聖書の頁をめくる音と、言葉を紡ぐように静かに語りかける牧師の声。主の祈りを捧げたあとの、分厚い音が重なり合って決して途切れない、永遠に重奏し合わんとするパイプオルガンの演奏。
学内礼拝に参加するたび、何か、言いようのない澄んだ空気を感じていた。

……と、そんな優等生なことを述べているが、実際はてんで礼拝に参加せず、サボってばかりだった。学内礼拝は3限と4限の間に毎日開催されていたのだが、これを休み時間と洒落込んで隣の学食で友達と喋り腐っていたのだ。けっきょく、4限の授業をサボった勢いで近くの喫茶に席を移したことの方が多く、満遍なく落単したなかでも4限の単位を落とすことは突出していたほど、礼拝には参加しなかった。数少ないまでも参加した日があったのは、授業の課題として最低何回か出ましょうね、との決まりがあったためだった。

とはいえ、
学内礼拝に行って、満たされずチャペルを出たことは一度もなかった。
あの大学で、もっと学内礼拝に参加すればよかった。


家の近所の教会には、大学卒業後も通っていた。
これも、もとは授業の課題の一環だった。
キリストの復活日の日曜に礼拝がある。
たいてい、午前10時半に始まる。

近所の教会は、新築だった大学とは打って変わって年季が入っていた。木の匂いと日曜の朝の温もりがやさしく包み込む。学内礼拝の時に感じたあの静謐で澄んだ空気が、不思議とここにも感じられた。

クリスチャンの方々は、みなさん優しく迎えてくれた。顔も覚えてくれた。受付の際にも「あら、来てくれたんですね!」と微笑んでくださった。若い人も時折数名参加していたが、年齢層はかなり高かった。授業でも知り教会の牧師さんからも伺っていたが、クリスチャンの高齢化と人口減少は進行しているそうだ。それもあってか、クリスチャンになるのかならないのか、そもそも毎回参加するのかしないのかも不明な奴にも優しくしてくれた。
しかし、徐々に足が遠のいてしまった。
数年経ったころ、牧師さんが代替わりしたことを、近くを通りがかって知った。


この頃、とてもよく思い出す。
聖書の頁をめくる音と、静かな語り口の牧師の声、重なり合うオルガン演奏。その時々に感じる清浄な空気……。

それが、よかったな、
いいな、と思っている。

次の季節に行けるか

桜の花が散りつつある。地面に敷かれた花びらが風に吹き上げられ、やがて洗われる。淡い色の隙間から若葉が顔を出し、新しい季節へとぐんぐん進んでいく気概がある。日差しも強くなり、長袖をたくし上げる。日焼け止めを塗らないと。
いつもより早く電車に乗った。車窓に見える一軒家の瓦がキラキラと反射して視界から消える。遠くの背の高いマンションが青空に屹立している。あのピンを軸にして街がぐるぐる回転して毎日が過ぎていく。
JRに乗り換えると、朝から電車が遅れていた。一本早い電車に乗っていてよかった。いつもよりすし詰めの車内に充満する少しすえた臭いが初夏を覚悟しろと圧をかける。視線の先では、キャリア風の女性がずりずりもぞもぞとしている。ジャケットを脱ごうとしていた。ラフな無地のTシャツと白い二の腕が露わになり、朝日に当たるとやけに色っぽくクリーム色に照った。俺はなんてぎこちなくて後ろめたい。目を逸らす。目の前には背の低く丸いフォルムの40代ほどのサラリーマン。後頭部の先に丸見えなスマホ画面には、『東京 イチオシ!ソープ嬢♡』の文字が躍っていた。うわ、朝からもっとよくない!……ものを見てるし、見てしまったし。それにしても、風俗嬢という仕事は、とことんプライベート「感」の環境下で、逃げ場のないサービス業を従事するのだ……目の前の男のフケだらけのじっとり髪に目を逸らして、もう視線を落とすところはなく、ドア上の液晶モニターを見る。春になって、「電車の中のテレビ局」と銘打ち、さまざまな番組が打たれるようになった。吉本芸人と、TikTokと、HIKAKINと、大食い……。でも、チョコプラの変顔クイズ企画での「ひょんなことから全てを失った時の顔」はちょっと笑っちゃった。
大きなキャリーケースを携える外国人が増えた。朝の混雑に困惑している。でもちょっと楽しそう。アトラクション。
仕事中、もうワーキングメモリが限界値にきたみたい。相談して、今週は水曜から休みをいただいた。何も考えずに静かに黙って過ごしたい。

夏が終わり始め、秋が始まる予感の季節

汗をかいても読書をしても収まりが悪くて、とにかく何をするのが居心地いいのかわからない。


夏が終わり始める。
若々しかった青葉は突端から色づき始め、窓際の17時は、昨日より今日、今日より明日と影が伸びてゆく。北回りの風がいつもよりカラッとしていて、水分ごと殴ってきたようなあのころの勢いが寂しい。


銭湯上がり、いつにも増して汚れが落ちすぎた。
夏の終わりと秋の終わりの隙間に入り込む季節は苦手だ。

そんなことを言ってるうちに、こんな不安定な季節、今年もまた味わえませんね。

対岸

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精神病って、精神世界の「ここ」と「あそこ」との橋が掛かる瞬間でもあるから、罹患とともに、これまでひとつしかなかった世界に対岸の世界が生まれることになる。精神の大いなるパラダイムシフト。メランコリーの深淵と悲哀。今立っている「ここ」は「こっち側」だった、と図らずも知らされる。

橋の「あっち側」には濃い"もや"のかかった不気味さのみが見えるばかり。「在る」けど「不在」な向こう側がつねに視界に入りながら、渡るか否か不安定さのなか生きることになる。


日々、対岸の存在を気にしている。
何も見えないあそこには何があるのだろう。


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夜。
赤羽を発った宇都宮線は荒川を越える。
そこは東京と埼玉との境界である。
鉄橋をけたたましく行きながら、湿度の高く密集した赤羽の街から、すぐに光の消えた車窓へ変わる。鬱蒼と繁る草地の間を河川が悠々と横たわり、川面の先には月が浮かぶ。景色のなか唯一の光が波紋に揺れていた。生い茂る草が風に騒ぐように四方に雪崩れている。

河川敷を越えると、すぐに川口の街に入る。
赤羽をトレースしたような密集した街並みを、何もなかったかのように、颯爽と過ぎていく。


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今週も働く。
今週は週4勤務。
残りの1日は診察日だ。

色々と実務的な脳を働かせてせっせと働いているが、長時間とはいかず、適宜休憩をとっている。
場所を移動し、別階のフロアの椅子に腰掛けると、スーッと心が落ち着いていく。吹かしに吹かしくさったエンジンが徐々にゆったりと動きを緩めてくれる。ホッとする。なんとも言えない脱力感がむしろ充電を後押しするのは不思議だ。

眼下には、無数のビルを縫うように首都高が伸び、そこを幾多のトラックや乗用車が絶えず行き交っている。
今、視界に入るだけでも、多くの人が運転している。
物資を運んでいる者もいれば、客を乗せて目的地を目指す者もいる。社用車で取引先へ向かう者もこのなかにいるだろう。

みんな働いている。
その中には俺もいるんだが、
その瞬間は、なんだか少し遊離した場所にいるようだった。


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そのときイヤホンで聴いていた深夜ラジオの馬鹿馬鹿しさよ

数年前、いかんともしがたい夜に、
「じゃあいっそ自転車乗っちゃう?」と、
寝静まった実家のドアを静かに開け、
ひとり自転車で都心を走りまくった。


とにかく坂が多くて飽きることはなかった。
長い下り坂はスリリングでよかった。
深夜、中心部は東京でもっとも暗い街になる。

銀座まで行くと坂はなく、
数時間前までは煌びやかだったであろうショーウィンドウ。
必要最低限の照明がむしろ生々しかった。


汗が冷えてきたのと同時に現実的な気持ちが返ってきて、
明日に備えて帰路に着いた。
上り坂が続きまた汗をかく。
背後から空が白んでゆく。
車の往来が増え、
暗闇で見えなかった泥酔者たちが
ところどころで路上で干からびていた。


帰るころには朝になっていた。

【本の感想】『ROLLER SKATE PARK』 小幡玲央・著

『ROLLER SKATE PARK』
小幡玲央・著



大学生だった頃の記憶と匂いを残し東京で日々を送りつつ、自身の内面下につぶやきを投じ、少し虚しい水面の波紋を写実的に描写する——。

本書は、20ページというボリュームのなかで、8篇のざらついた生の述懐が収録されている。この20ページという薄めといえるzineには、凄まじい威力がある。他人事とは思えない胸のざわつきを覚えた。
なぜだろう。



『DJ PATSATの日記 Vol.2』というzineを数ヶ月前に読んだときも、そんな思いになった。
筆者は、大阪・淡路で音楽と自転車、そしてzineを販売している『タラウマラ』の店主、土井政司氏。
zineの凄みというのは、市井を生きるひとりの綴る言葉が、同じく市井を生きるひとりの読み手に受け取られる点だ。

この人のzineは、とにかく防御物を一切身に纏わず、常に攻めの姿勢を崩さない。自分のため、家族のため、周囲のため、そして未だ知らぬ誰かのために。
そして、未だ知らぬ誰かのひとりである私は、読後、自問が止むことはなかった。


「お前はどうだ?」



話は戻り。
本書は、東京と、東京「的なもの」にすり減らされつつ、流されそうになりつつ、屹立している。澱みと虚さを抱えこみながら、抗っている。筆者自身でも、もしかすると、明確な理由はもたずに、しかしながら屹立し抗い続けるのかもしれない。
そんな本書の姿はまさに筆者であり、それぞれに感ずる読者一人ひとりでもあった。


しかし。
一人ひとりには、それぞれに場所や仕事(生産と消費の成員となる!)があり、それに応じたカラーを身に纏って、日々生きていく。
私も、仕事をしてきて、それぞれにカラーがあり、すでに自分も選び始めている。
他方、カラーを知ってしまうと、「まだよくわからない」「無色透明」で「不安定」な状態にはなかなか戻れない。もはや虚しさに慣れ、うまくダシにしてしまったのだ。
そんななかで、本書はまるでグレーがかった透明色として、不気味で無機質、心に低温やけどを促すような「東京(的なもの)」の姿を捉える。読者は何を思うか。どんな防御物も貫通させる本書の念は、私たちになにを影響さすだろう。



どこかの場所で今日も生きている人が書いた作品は、いろんなバリアや身に纏うカラーを鋭利に突き破って、胸のうちに刺してくる。
たしかにプロ野球のピッチャーが投げた豪速球が如何に凄まじいものかを知るのは、相対し受け止めるキャッチャーのミットの感触と手のしびれに勝るものはない。

それにしたって、
「想い」がダイレクトに向かってくるのはなぜだろう。



読後、自分自身への問いかけは続く。
もちろん、安易に簡便な結論を出す必要はない。

「お前はどうだ?」