ひとり・ひとり・ひとり?


自分が今まで当たり前に思っていた生活が、否応なしに変わらざるを得なくなった。自由に外に出られない。人に会うこともできない。ないないだらけの生活だ。茫然と立ち尽くすことになる、と身構えた。

ところが蓋を開けてみると、意外な日々が待っていた。そのひとつが、「ひとり」の解釈の変化だ。


今この生活で、私の隣には母親のほかに誰もいない。もちろん、人に会えなくなって、喫茶でお喋りとか、居酒屋で笑ったりとか、そんなことができずに、かれこれ1ヶ月半は経った。

たしかに、とても寂しい。でも、意外にも心に毒なものじゃない。あまつさえ、少しあたたかい。


ここには誰もいないのに、はっきりと今、人が隣にいる。

こんな相反する思いが同居しているのはなぜだろう。すごく不思議な気分だ。ただ、「同居できないものが同居してしまっている」のではなく、「同居できるようになった」と受け取った方が自然なのかもしれない、とも思った。なにしろ今、生まれて初めて物理的に誰にも会えないのだ。実際にひと目見れなくなってから、新たな人の会い方や接し方の模索が喫緊の課題になったとしたら、どこかで折り合いをつけて、生理的に解釈をして生き残ろうとしているのかもしれない。

記憶や想いで、いつでもその人たちに会っている? いや、そうせざるを得なくなってから、身体の特定の機能が発達をはじめた気がする。スマートフォンの普及で情報処理能力が高まった一方で、文字の書き取りに不得手になったのと同じに思う。

「ない」とか「ひとり」とか、うちに籠もる生活は発見に満ちている。しかも、発見は往々にして、それ以前の自分の「当たり前」を颯爽と斬るものだった。これまでの生き方ってなんだったんだろう。っていうか、「これまでの生き方」って、これもういいや、と脱ぎ捨てるためにあったのだろうか。

やー。斬られたわあ。