月曜日のご挨拶

おはようございます。
みなさんお目覚めはいかがでしょうか。


働きはじめて5ヶ月目に入りました。
慣れないことばかり、知らないことばかりではありますが、できるところから慣れていき、少しずつ学んでいる毎日です。

知らないものを得ていくのは、楽しいことです。知的好奇心がくすぐられる喜びって、きっと何より勝る贅沢なのだと思います。そこに関しては、働いてからようやく知りました。学生の頃に得られなかったのは、皮肉なものですね。おしなべてそんなものでしょうか。


先日、高校のこと、大学のことを振り返る機会がありました。およそ10年間の日々をゆっくりと。

あの日々は、まるで別の人を見ているかのように遠い記憶にあり、記憶を記録メディアとするなら、写真が数枚手元にあるくらいのものです。

その数枚は必ずしも明るい描写ではなく、薄暗い空間にストロボも焚かず、ノイズを含んだ白黒のイメージ。ということで、そういった写真を手にとって見返す機会もさほどないまま、引き出しの奥の奥へと仕舞われていました。


しかし、この頃思います。
それだけではなかったと。

悲しいこと、やるせないことばかりと見ていたものにも、必ず理由や背景があり、それがだいたいは喜ばしいことだったのだと思います。

たとえば、楽しい旅行の最終日、あなたは新幹線で家路につくとします。旅先の風景は車窓の背後に回り、次第に地元の色を感じるように。
そんなとき、小さな寂しさを感じることはないですか。擦れたぐらいの心許ない感傷を抱くのではないでしょうか。
それは、紛れもなく楽しかった思いが、いまその手許に残っていないためです。過ぎ去ったものへの名残惜しさを、ゆっくり溶かしていく作業なのだと思います。

それと同じように、悲しい、切ない、やりきれない、と感じるには、「それが悲しいことなのだ」と思えるような嬉しい経験があってこそだと思います。あの喜びがいまそこにはないことを、悲しんでいるのでしょうかね。


いい思い出、嬉しい出来事は、この数枚の写真に隠れ無数に眠っていたことを、鮮明に思い出すようになりました。
友人と何時間もおしゃべりしたこと、恩師の表彰の舞台でスピーチさせてもらえたこと、写真サークルで作り上げた展示、ゼミでの自由闊達な議論、終電迫る夜の大宮……からのカラオケオール。


悲しいことは幾度もありました。へとへとになることもたくさんありました。
しかし、それにもかかわらずやってこれたのは、そういった思い出を誰かと作れたからなのだと、今ようやく思えます。


冷凍保存された記憶たちが、自然の風に充てられながら溶かされている毎日を、楽しい、と思えます。それは紛うことなき成長と言いたいです。そして、周囲の支えがあってこその成長だとも。

どのタイミングで、どの部分が報われるかは、まさに神のみぞ……のことなのでそこは神に委託させてもらいます。出来ることを少しずつ、腐らずに徳を積んでいこうと思います。


月曜日です。せっせとやっていきましょう。
これからも、よろしくお願いします。

大山