いつかどこかで

 柄にもないことを言うようだけれど、悩みや落ち込みがぐんと減ったんだ。
1日中沈殿した心地で朝から晩までの日の流れを、対岸越しに見つめている。そういったライフワークさえちょっとした遠くの昔に感じてきた。しっかり苦悩している奴だけに信頼感を抱いていたのに、苦悩にも種類があることを知ってからは、ただ落ちていくだけにもがくことも、少し気恥しくなってしまう。自転車余裕で漕げる子どもがそれ以前のこけまくって膝をすり減って泣きわめいていた、アレが子どものより一段前の姿なんだな、と幼いながらに悟る、その感じ。
 賢く悩むって思いの外楽しくて、くよくよする自分を俯瞰して見てみると滑稽で茶化したくなる。本当にずん、と悩んでいるわけだがそこにふっとした軽さが入り込む。悩み方にも、方法ってあったんだな。



 でも、文章を書こう、という気分が心なしか薄まっている。
 それは書く気分書きたくない気分、とも似て非なるもので、気分によって左右されるにせよ、「書く」ことの揺るぎがなくて、本当に文章が好きなんだな、こいつ、と安堵する瞬間でもあるんだ。
 その「書く」が揺らいでいる。
 それはなぜか。
 体感だけれど、苦痛が減ったからだと思うんだ。

 

 軽い文章ならすらすらと書ける。
 そして日々の生活のことは喜んで書きたい。
 ただ、これまでにあった「伝えたいこと」に限っては、「書く」ことが遠い。
 書くまでもない、かもしれない、たぶん。ぐらいの戸惑いと揺らぎがあって、とくだん声を大にして伝えたいこともそれほど思いつかず、それを筆圧込めて原稿用紙に埋め込む如くインクを刻む、そこまでの「切羽詰まった熱情」も、今は落ち着いている。

 そんなこと、初めてだから戸惑う。
 またきっと再沸騰するかもしれない。けれど、いったん常温に下がっていくこの時にはそうは思えない。また熱は上がるだろうか。もう上がらず、止めるかもしれない。ええいと書きはじめて、未完に終わったことに何とも思わなくなっているかもしれない。

 自分の書き方が変わるんだろうなあ、というか、書く意味合いが変わりそう。
 仕事を中心に回っていく生活のなかで、どれをどうやって書いていこうか、見当つかないにしても何かすとんと納得するものにたどり着きそう。

 

 何とかなったこれまでの人生を振り返ると、たしかにそうだ。
 いつのまにか、ふとした何かで、落ち着いていくだろう。