令和への誓い

より多くの毒にはより多くの毒を持って制する図式に基づき、私たち平成世代のメインカルチャーはカジュアルなハードセックスへの傾倒を進めているが、それは愛の話題ではない。


現在の私たちは、体内への毒の供給量がゾーンに入った狂い方をしているために、解毒するだけで一日を終える。ツイッターが廃れないのは、いつまでも訳もわからず毒を所望している私たちがいるからだ。これは確信に近い。というかフツーにそう思うだろ?
毒が体内に回っていれば不憫に立ち回れるから、進歩やら未来やらに目を向けなくていい。不憫に立ち回るうちは風邪の子供を看病するママがどこからともなく現れる。私たちは、本当はそれをよく知っている。熱さまシートでも貼り付けて、熱湯で茹でた体温計を見せびらかしながらバブバブ甘えてろ。でも、赤ん坊役の私たちも、ママ役の私たちも、どうせ毒に浸って自家中毒を起こしたままに死んでいくぞ。誰の素顔も知らず消えていくぞ。


不全感は他者がいて初めて満たされるものだと知りながら、私たちは他者の慮りを微塵も見せず自分の解毒に忙しく立ち回る。「他者は自分の解毒のための手段なのだ」と言わないまでも振る舞いでバレる。洒落にならないほどダサい事実なので、隠し方が上手くなる。言い訳も上手くなる。こうして私たちは、その特異に高度な脳機能をフル活用し、日々の逃避方法を必死になって編み出すようになった。

でも、腐った根元を野放しにして、目先の取り繕いに頭脳を働かせて、ふと、立ち尽くすことはないか。私たちは、なにをしているんだろう、と、虚しくなることはないか。私たちの生んだこの時代、いったいなにを生んだんだ? ゾッとして、なにもかもが、なにもない気にならないか。


不全感の解消には他者が不可欠だが、換言するならばそれは「愛せよ」だ。愛することから逃れずに、覚悟を守り頭脳を駆使し苦闘せよ、と、訴え続けているのだ。誰が訴えているか? 私たちひとりひとりが、内発的に訴えていると、野暮にも言わねばならないか?
私たちは知っているはずだ。どれだけツイッターで呪詛を連ねようが拾おうが、どれほど豪快かつ手当たり次第にセックスを重ねようが、この不全感と虚しさが晴れるわけがないことを。いくらそれらが高度に正当化されようとも、根本の腐った極みみたいな生き方が肯定されないこと、なによりも肯定しない自分自身がいることを。私たちは知っていたはずなのに、なんて無残な平成の終幕を迎えさせてしまったんだ。
私は、私たちは、私や私たちの良心を裏切ってはならない。そんな自殺の反復を令和に持ち越すことが、悲しくて仕方がない。その為に、私たちは共助しなければならない、笑い飛ばさなければならない、取り澄ました表情をなるたけ忌避しなければならない、全力でぶちまける熱を抱き続けなければならない。


私たちは、絶対に大丈夫な時代を作れるから、私たちは絶対に大丈夫だ。令和が近い。自分にガン飛ばして生きてやる。