感覚と生についての実験

 睡眠薬を飲んだ。
 20分前に、私は1錠の睡眠薬を体内に摂取した。
 そう、1錠の睡眠薬を体内に取り込むこと、それは睡眠欲のオン・タイマーを、身体に埋め込むことだ。然るべき時間が経過すると、リンリンリンとアラームが鳴り出し、自動的に身体の末端から、眠りに就く。手足の先から、胴体へと移り、やがて顔にまで人工的な眠気が侵入し、ついに、私は、瞼をぴくぴくと瞬かせることを手放した刹那、人工的な睡眠欲に負けてしまう。
 睡眠薬に頼らずに眠ることは幸福だ。なぜか?わかるだろう。だって、当たり前だろう。人工的な睡眠欲に頼らないこと、それは、私の欲求を忠実に肯定しているのだから。
 私の心身がこう訴える。もう、眠たい、眠りに就かせてくれよ。僅かでも重たい訴えに、私は生理的にこう応える。わかったよ。君のために、眠ってやろう。しかも、良く深く、眠ってあげよう。そうしてすんなりと、眠りに閉じていければ、心身に心優しいにきまっているんだ。
 それがどうだ。わが身に強制シャットダウンをすることが、どうして私を優しくしている、といえるんだ。私の理性は眠りたい。しかし心身は、起き続けることを、心の底から、身体の端々から、欲しているんだ。それを、1錠の睡眠薬によって、簡単に制御されてしまう。外部の異端なる人工物が、私の身体を、(そう、強い言い方になってしまうが)侵略し、鎮圧し、徹底的に跪かせるんだ。それがどうして、善いことだとか、身体に善いとか、手放しに思えるというんだ。


 感覚。
 きっと、感覚は私を助けるだろう。
 なぜなら、感覚がもっともはやく心に届く叫びであって、倫理や理性、欲望なるものに押しつぶされる前に拾ってあげることができれば、きっと、それらからイノセントな感覚を守ることができるから。そうして、私は私のイノセントを大切に守り生きていける。それは青写真でもいい。夢想家でもいい。感覚は私を救うんだ。
 どうしようもなく死にたくなった浅い夜に、私は家の近所をうろついた。そうして、駅はすぐそこだったため、電車に飛び乗って、どこか、どこかへ行ってしまうか、どこか遠くの地へ行ってしまうか、とりあえず、池袋まで行こうか、遊ぶように考えていた。
 そう、私は、遊ぶように自分の今後の生を考えていたんだ。遊ぶように考えられていただけで、答えはあらかじめ決められていた。そのときは池袋にしたが、遊びがなかったら、きっと第1の「どこか」にしていたかもしれないね。
 池袋に着き、ジュンク堂書店が見えた。クレジットカード。たしか財布にあったよな。そうだな……底の底のように落ち込んでいる私に、ひとつ優しいことをするならば、なんて声をかけるだろう。
「きみが、買いたい本を、1冊、買ってあげよう。なんでもいいよ。限度はあるけど」
 考えるより先に、こんな声がわが身から飛んできた。優しい声だった。まるくてぬるい潮水のボールみたいな柔らかさ。南池袋の交差点で泣きそうになりながら、私は足早にジュンク堂の入口へ。確実に、心に響いていた。好きなものを買って、あしたも生きる。生きたいんだよ。本当に。
 1階。新刊本がずらりと並ぶ。はじめに目に留まったものを。はじめに感覚が喜んだものを。と、それだけを基準にして、歩を進めた。自然に足は、文芸書コーナーへ。
 はじめに手に取ったのは、町田康『湖畔の愛』。一行目。読みにくい。文字がごつごつしていて、角ばっていて、尖っている。ううん、やめる。
 続いては、浅生鴨『伴走者』。一行目。硬質かつ熱も内にこもる、男性的な筆致。丁寧な描写が為されそうだが、今の私は、もっと、違うものが、ほしい。しばらく手に取りながら、やめる。
 次に、辻村深月『かがみの弧城』。一行目。読んで、いや、視界に入れて、どうしようもなく、吸い込まれた。空気が浮かぶ、音が浮かぶ、主人公の心情が浮かんでくる。とともに、私はふたたび、視界がゆがんでいく。涙はすぐに溜まり、しかし流れることは阻止した。どうしてもまだ早い。涙ぐむにはまだ早かった。
 もちろん、会計に出したのは、辻村深月『かがみの孤城』だった。


 睡眠薬を飲んでから、おそらく1時間が経った。
 やるせなかった。
 人工物でしか私は私の健康をつかさどれない。健康を維持できないことに、抵抗する身分のくせ、毎朝毎晩、そして頓服時に、服薬を迫られる。誰にいちばん迫られるかって? 私自身にきまっているじゃないか。薬を飲まないと、怖くてだめなんだ。それほどまでに、毒されている、と考えることだって、ナンセンスでもなんでもないさ。
 だから、せめて、せめてもの、抵抗。睡眠薬はじきに効く。どうせ数時間後には眠っている。でも、そのあいだに、人工的な侵略と略奪から、徹底的に抵抗しているんだ、私は。そうして自分の生をみつめているんだ、ぜったいに。

 

 

 ジュンク堂で買った翌朝。目が覚めて、カバーのかかった分厚い本、辻村深月『かがみの孤城』を撫でた。撫でた指先には、記憶が残る。町田康『湖畔の愛』と、浅生鴨『伴走者』の、指先の記憶。カーテンにあたる朝陽のように、記憶が静かにあたたかく、理性と繋がり溶けていく。『湖畔の愛』を読める日を、『伴走者』を読破する日を、しっかり今後に結び付けておこう。『かがみの孤城』のメッセージに、私だけのメッセージに、『湖畔の愛』と『伴走者』との本の影を載せていよう。

 

 

 感覚がある。
 感覚は、抑圧を嫌悪する。そして抵抗を起こす。
 最後の、窮地の窮地に追い込まれたときに、最後に信頼し得るものは、きっとそれだ。きっと、感覚が私を、生へと導き入れてくれるんだ。そうして、ピンチから脱した時には、きっと理性と繋がり溶けて、「単行本を10年ぶりに買いましたの巻」とか、「いつのまにか寝ちゃってたエヘヘ」とか、そんな話に戻していく。
 だから、だから、だからこそ、
 といって、その先は野暮だけれども。