非言語から生み出されたメッセージ

私には英語がわからない。だから、今聴いている米軍放送の、ABCニュースの内容はすべて、フリースタイルのヒップホップとかわらないのだ。調子がよく刻まれるライムに、合間に挟まれる音楽が間奏みたいだね。本当のところ、米軍放送のニュースにはどんな皮肉と嘲笑が含まれているのだろう。何パーセントの濃度で、日本への柔らかいメッセージが混入されているのだろう。

 

言語のないメッセージ性、それならば私がつくるのみだ。

AMラジオを久しぶりに聴いた。スカイツリーが建ってから、あのてっぺんから、新たなFM放送が発信されるようになった。数年前のことだ。AMラジオ局が、FMで、広範囲に聴けるようになる。なにせスカイツリーのてっぺんだ。聴けない地域なんて、あるはずがない。クリアに聴けるようになった"所謂AM放送"に、私はホイホイと乗っかった。それから、AMにアンテナを立てることはなくなった。

しかし今週の月曜だ。新宿のラーメン屋で夕飯の豚骨ラーメンを啜っていたら、似つかない米軍放送が流れていたのだ。周波数は、810kHz。何年ぶりのAMだろう。あれ、こんなにくぐもっていたんだっけ?

でも、なんでだろうか、くぐもった音が、懐かしい。妙に郷愁を誘うのだ。懐かしくて、すこし切ない。夕方のような音がした。米軍放送なのに。慣れ親しんだものなんてなにもないのに。

 

 

そう思ったあと、私はふと、亡くなった大杉漣さんを考えていた。大杉漣。私には遠くて近い声だった。私にとっては俳優ではなかった。彼は、はじめてであり、最後の声の人だった。

16歳の春のこと。受かりたかった高校にめでたく合格し、通い始めた矢先の、都バスの車内で、私は大杉漣の声を聞いた。すぐ横から、大杉漣の声がして、振り返ってみたものの、予想はついていた。大杉漣さんはいるはずがない。それどころか、バスの車内には、乗客は私しかいなかったのだ。生まれてはじめての幻聴を経験した。そして、これが、最後の幻聴だった。私にとって、病気との闘いのゴングは、大杉漣の声だった。

大杉漣さんが亡くなったと知り、ショックが隠せなかった。俳優・大杉漣というより、死闘のゴング・大杉漣だったから。心の整理なんて、つくわけがない。いや、16歳から整理ができたものはなかった。だから、大杉漣さんの急死を、私にとっての「大杉漣」の存在を、今回、整理できるかどうかは、先行きまったく不透明だ。大杉漣は、なんと声をかけていたか、私は忘れてしまった。そもそも幻聴に、意味なんてないだろう。

 

 

思春期の終わりを感じている。思春期は死ぬ。死ぬものだと知った。ありとあらゆる概念は死んでいくが、これまで、なんとなく、思春期の青さは本当に死んでくれるのだろうか、と、幽霊のようなものにずっと思えていたぶん、気息奄々ないまのありさまに、信じられるはずがない。が、確実に、奴は、死へと向かっている。淡白なものだ。青さの終わりは淡白なものだな。確実に何かの匂いを漂わせて、静かに死んでいってくれるのだ。中指たてながら感謝しなければ。

 

 

パソコンを修理に出した。その矢先に、私は長文を書きたくなって、そういうことってあるよなあ、と、思いながら、iPhoneでセコセコと書き繋げた。書き繋げたつもりだったが、極めて散文的になってしまった。ツイッターに書いたことをくっつけただけだから、確かにそうなるのは当たり前なんだけど。こういう時にパソコンは便利だった。綺麗に直って戻ってきてね。修理代は無料であってほしい。そんなことはあるはずないか。

 

 

今日は休みの日だから、たくさんもの思いにふけった。いい休みの日だった。何かを知った気がした。きっと、何かを知ったと思う。でもその何かは、極めてあやふやだ。ずっとAFN聴いていたいな。