物語の振る舞い

ツイッターでフォローさせてもらっている、マツさんの掌編集、「悲しくはない」を読み終えました。以下、感じたことを書き記します。‬



‪思わず「すごい」と口に出る。なんて薄っぺらい言葉だろうと苦々しい気にもなった。しかし、反射的に漏れた「すごい」という感嘆は、反射的だからこそ、有無を言わせぬ説得力があった。たしかに、「すごい」のだ。‬


‪言葉を組み合わせて文章を作る。‬
‪文章が積み重なりひとつの段落を産み落とし、物語が生まれる。それは、静かに考えると、とんでもないことだ。計り知れない力だ。‬
‪ひとつの言葉に熱を込めたものが物語になるまでの、遥かに長い旅路を辿ることは、物語の触れ方のひとつでもある。書籍の頁をめくる、その指先に刺激される質感は、遥かなる旅路を想起させる。‬
‪平仮名、片仮名、漢字、句点、そのあらゆる配置には理由があり、用いること、または使用を見送ることも物語になる。それ自体が物語だ。‬


‪この作品の言葉や文章は、柔らかく、涼しく、そして淡い。14もの掌編に一貫して漂う「仄かな寂しさ」は、上述した文章の表現によって、愛らしいほど鮮やかに浮かび上がる。‬
‪満員電車、群衆、都市の人口を示した数字。人間のひとりひとりには、「仄かな寂しさ」を忍ばせている。その表現や振る舞いがある。
朝のラッシュの電車に乗り込むときも、繁華街を歩くときも、広報誌の自治体プロフィールを見るときも、それは「何万人」ではなく、「ひとりが何万もある」のだ。
街には仄かな寂しさが何万もある。その表現や振る舞いが何万もある。しかし、しきりに麻痺するように出来ているのか、「何万人」と認識してしまう。‬


‪この作品は、その、「何万人」の「ひとり」を、そのひとりの人間を、14もの掌編によって、露わにさせる。自己の内にそれを見つけ出す。‬「すごい」の詳細は、こういった複雑な感情によるものだった。


‪ああ。私も物語を書きたい。と、思ってしまいました。躊躇いが強いけれど。そう思ってしまった。‬よかった……。