秋の風

 風が吹く。落ち葉が地面でからからと転がり、草の乾いた匂いを感じた。

 

 この日最後の授業を終え、帰路につく。見上げれば人気はまばらだが教室の灯りはそこかしこに煌々とついていた。11月の冷たい空気が頬にあたる。
 東京郊外の新興住宅地は宅地化が鈍く、大学敷地の四方は雑草が生い茂る。近くには小川が流れている。川面は静かに波紋をたゆわせ、通りがかりの風を冷ます。歩くと揺れる錆びた橋を渡ってバイパスへ。売れ残りの目立つ住宅街の一軒ごとに暖色の灯りがにじみ、夕飯の匂いが鼻の頭にかかって消えた。持て余した広大な駐車場から土埃、竹林では葉が擦れてざあざあと道を鳴らす。


 バイパスを抜け片側一車線の市道を歩く。等間隔に立ち並ぶオレンジの街灯。褪色ばったアスファルトの路面が、色を付け鮮やかに視界に飛び込む。学習塾帰り、環状七号線脇をとぼとぼと歩く中学2年生の自分を思い出した。環七の街灯も同じ色をしているから、夜に帰るときは靄のかかった心境になる。

 


 駅に向かうその一歩ごとに、冬を手繰り寄せている気がしていた。頬にあたる風が、否応なしに乾きはじめている。
 北からの便り。雪の降らない関東平野の冬は、風の匂いが消えてしまう。

 



 秋になると、学生時代を思い出す。
 夏の記憶を書き換える秋の風が、窓から入り込んだ。

 

 

9月

午後から雷雨になるらしい。

朝から湿度もあり、傘は面倒で、さらには埼京線は遅れている。中高生の新学期の開始とともに、朝の混雑は増した。階段の裏、さらにグリーン券売機の裏のベンチでひっそりと佇む女子高生を見かけた。車内では、黙々とスマホゲームに興じる男子高生もいた。

シャッフルのウォークマンORANGE RANGEの上海ハニーからリストの溜息に流れた。かなり攻めた選曲。木々が色をつけ始めた。日々、溜息が映える風景へと変わっていく。

朝の風は涼しい。10本もの水色の線に紛れ込まれたカーキ色の1本の線が、ホーム上を駆け抜ける。

月曜日のご挨拶

おはようございます。
みなさんお目覚めはいかがでしょうか。


働きはじめて5ヶ月目に入りました。
慣れないことばかり、知らないことばかりではありますが、できるところから慣れていき、少しずつ学んでいる毎日です。

知らないものを得ていくのは、楽しいことです。知的好奇心がくすぐられる喜びって、きっと何より勝る贅沢なのだと思います。そこに関しては、働いてからようやく知りました。学生の頃に得られなかったのは、皮肉なものですね。おしなべてそんなものでしょうか。


先日、高校のこと、大学のことを振り返る機会がありました。およそ10年間の日々をゆっくりと。

あの日々は、まるで別の人を見ているかのように遠い記憶にあり、記憶を記録メディアとするなら、写真が数枚手元にあるくらいのものです。

その数枚は必ずしも明るい描写ではなく、薄暗い空間にストロボも焚かず、ノイズを含んだ白黒のイメージ。ということで、そういった写真を手にとって見返す機会もさほどないまま、引き出しの奥の奥へと仕舞われていました。


しかし、この頃思います。
それだけではなかったと。

悲しいこと、やるせないことばかりと見ていたものにも、必ず理由や背景があり、それがだいたいは喜ばしいことだったのだと思います。

たとえば、楽しい旅行の最終日、あなたは新幹線で家路につくとします。旅先の風景は車窓の背後に回り、次第に地元の色を感じるように。
そんなとき、小さな寂しさを感じることはないですか。擦れたぐらいの心許ない感傷を抱くのではないでしょうか。
それは、紛れもなく楽しかった思いが、いまその手許に残っていないためです。過ぎ去ったものへの名残惜しさを、ゆっくり溶かしていく作業なのだと思います。

それと同じように、悲しい、切ない、やりきれない、と感じるには、「それが悲しいことなのだ」と思えるような嬉しい経験があってこそだと思います。あの喜びがいまそこにはないことを、悲しんでいるのでしょうかね。


いい思い出、嬉しい出来事は、この数枚の写真に隠れ無数に眠っていたことを、鮮明に思い出すようになりました。
友人と何時間もおしゃべりしたこと、恩師の表彰の舞台でスピーチさせてもらえたこと、写真サークルで作り上げた展示、ゼミでの自由闊達な議論、終電迫る夜の大宮……からのカラオケオール。


悲しいことは幾度もありました。へとへとになることもたくさんありました。
しかし、それにもかかわらずやってこれたのは、そういった思い出を誰かと作れたからなのだと、今ようやく思えます。


冷凍保存された記憶たちが、自然の風に充てられながら溶かされている毎日を、楽しい、と思えます。それは紛うことなき成長と言いたいです。そして、周囲の支えがあってこその成長だとも。

どのタイミングで、どの部分が報われるかは、まさに神のみぞ……のことなのでそこは神に委託させてもらいます。出来ることを少しずつ、腐らずに徳を積んでいこうと思います。


月曜日です。せっせとやっていきましょう。
これからも、よろしくお願いします。

大山

リキュールが恋しくない

リキュール。
海外旅行から帰ってきた母のお土産だ。
牛乳と併せて飲むと美味しいらしい。
ココナッツミルクの風味でいて、とろんとした心地になるのだそう。
最近はそういったアルコールを選ぶことはなくなったから、
いい機会だと思った。

https://www.instagram.com/p/B0jCNG5gmhA/



かつては、カルアミルクもよく飲んだ。
岡村靖幸の同名のヒット曲も聴いて、そこはかとなく香る甘味が感傷を誘った。
のめり込んだ。夢中だ。酒の全てがここにある、と威勢よく思い込んだ。
しかし、ある真夜中にひとり台所で、ステンレスの味気なさと一緒に瓶をあけたとき、
銀色の冷たい感じが相当堪えて、とろんとしてからすぐに冷めた。


カルアミルクやカクテルをよく飲んでいたころは、
「甘い飲み物なのに気軽に酔える!やったー!」と嬉しくなっていたから、
仮にそれが小学生身分だったなら、夏の日記帳に嬉々として書いていたろうな。
夏の日記帳のハイライトは、当時新型の山手線に初めて乗った感想を
「まるでホテルのゆりかごだ!」と鮮やかに描写したことだ。
ホテルのゆりかごは、今年か来年かには引退するそうだ。

脱線。
「甘い飲み物なのに気軽に酔える」ことが嬉しかった私は、
あの日、真夜中に飲んだ台所のカルアミルクから、ぱたんと魅力が薄まったのだ。


ひとりの飲みに感じる、得体の知れない「惨めさ」は感じたことがあるだろうか。
ひとりで黙りこくるようなときに、
誰もいない、何の嬉しい出来事もない、
それなのに喜んで微笑んで上気している自分を、
よく俯瞰で見ることがある。

で、あの日、思ったのだ。
そんなことやって、何が楽しいのかね。
ひとり、ジュース感覚で気軽に酔えるって、
いいとこどりに見えつつどっちつかずなんじゃない?

https://www.instagram.com/p/B0ft0L4AEhF/



それから私は、新たなパンドラの箱を開くことに。
そう、泣く子も黙る日本酒と焼酎だ。
ひとりで飲む熱燗、ひとりで飲むロック、
添えられた焼き鳥。皮とレバーはマストで。
まずはおちょこを一気。
うまい。
続いて、おちょこに注ぎしばらくちびちび。
ああ、うまい。
2合目突入した一口目、ふたたび一気。
……………………。
…………うめえなあ。


ひとり飲みをしています感。
ひとりでちびちびやってます感。
もう、これでいい。
がっつり飲んで、がっつり酔う。
今、ひとり飲みがアツい。
岩手の日本酒をもっと知りたい。
神社の参拝でひとくち飲んで、顔が「クーッ」としてしまったが、
もう、誰も私を止めてくれるな。



(……何の話をしたいんだっけ……?)




ちなみに、母は下戸なので、
リキュールの情報はインターネットが全てだ。
でも、せっかく頂いたお土産、
久しぶりに、飲んでみよう。

https://www.instagram.com/p/B0dwHIHgz9u/



スタートから締まりまで悪いですね。
岩手の日本酒は、赤武がおすすめです。
さらば!

Sony α7ⅲを買いました

お久しぶりです。長々と更新が途絶えてしまいましたね。
書く習慣がすっかり消えかかっていました。
すらすらとした文章を書けるまで、ぽつぽつと文章を書いていきますね。
今回は、ライトな感じでいきましょう。

 

さて、今回はタイトルの通りです。
ありがとうございます、Sonyのαシリーズから、α7ⅲを買いました!ありがとう!

はじめてのSony。はじめてのフルサイズ。はじめてのミラーレス。
なにもかもが初めて尽くしのカメラを手に取りつつ、撮るのが楽しくて仕方ないです。


https://www.instagram.com/p/B0qasAVAl6r/

珈琲伯爵 池袋東口



まず、Sonyのαが出す色味の心地よさったら!
この色味、フィルムの風味に似ています。
例えば、夕暮れを見たときの弛緩と気だるさの色味や、
夏の夜の湿った空気に交じる涼風が、心地いいなあ、と感じる瞬間を、
もしも色で表現するならば……? とのイメージにとても似合う。
なかなかデジタルカメラの撮影ではバシッと決まりにくい色味を、
α7ⅲでは即座に出してくれます。本当に楽しい。
フィルムの色味では、KodakのPortra 400に似ています。

https://www.instagram.com/p/B0V-plAAxp_/



また、驚いたのがフルサイズの凄みです。
フィルムの風味を損なわず、細かな描写までしっかり見せている。
これが妙味で、前面に出してほしいもの(≒ピントに合わせているもの)を
迫力と表現力・精緻さを存分に発揮していて、凄い……!怖いほど凄い!
撮った瞬間にヒッて仰け反る楽しさがあります。

https://www.instagram.com/p/B0qMWqrANoj/

 


で、ミラーレスってなんて撮りやすいんでしょう!
これまでCanon EOS Kiss X7を使っていたのですが、
ミラーレスでの撮影を知ると、
ファインダーを覗く作業にも好みが分かれるのだろう、と感じるように。

ファインダーは、視界を撮影に没入できる点が特徴でしょうが、
それを「撮影に没入できる」と受け取るか、
「周囲の視界が遮断される」と受け取るかは人それぞれでしょう。
私はその点、ミラーレスでの撮影が向いているかもしれない、と感じました。
たとえば街中で撮影するとなると、
通行人や乗用車の往来、街の騒音、色とりどりの情報、
24時間365日、絶えず続く環境変化の一部となって撮ることになります。
ここでカメラと身体をちょっと離すあたりで撮影する感じが、
空間に溶け込んだ気分になるのですよね。リラックスしながら撮れる。

 

https://www.instagram.com/p/B0vP17VgEY_/

 


まあ、小癪なことを並べておりましたが、
ミラーレスは楽なものです、本当。
撮ったものもWi-Fiスマホに飛ばせますしね。便利。

 

ということで、仕事の鞄にも忍ばせています。
撮るのが楽しく、毎日1枚は撮りたいな、と!

https://www.instagram.com/p/B0jCC7yAaZx/

 

よだかの星

 よだかの星を食べました。
 ……との書き出しがいかにクサくてイタいかはよくわかりますが、これは表現描写のものでなくて、実際に口に運んだのだから仕方がない。

 


 ぴんときた方もいらっしゃるだろう。『よだかの星』とは、宮沢賢治の短編名だ。岩手に生まれ、愛を渇望し、そして布教に殉じた宮沢賢治の遺した作品のひとつにして、金字塔。一等星。祈りの愛。というか愛。誰も可愛くないのになんだか愛。作品中、主人公に向けられるものが誰にとっても愛ではないのに、読後感はまたひとつ性善説に賭けたい気になるから宮沢賢治は神。いくらでも褒められる。というか褒めているうちに1年を終えたい。
 何か、くじけそうになった時、自分自身で大切にしている信念(なんて大それたものでもないけれど)に疑いを抱いた時に、よく読み返す。詳しいストーリーは読んでいただきたい(のと、自分が読後感しか残らない読書をしているから紹介もなにもできない)。読んで。30分あれば読めるから。

 


 にしても、あの作品は短いわりに屈折感があって、なのに真っすぐにも思えてしまうのは、癪だ。気難しくて、嫌気も差して、でも避けることもできなくて、やりきれないままに生命力が満ちていく。
 主人公の境遇は、とにかく救われない。ストーリーが進むにつれ、救われることのない境遇に光が差すどころかいよいよ窮していくのだから、より救われない。遂に主人公は、人生への絶望感が絶頂へと到達する。そこからのスピードは加速に次ぐ加速。暴れ出す生命力は一筋の光となって、エンドロールへの全力疾走を遂げる。

 それだけ知ると「悲痛な物語なのだろうか」と感じるかもしれない。しかし、ここが不思議さと屈折さの妙味なところで、印象は、悲痛、というよりか哀愁に近い。
 全体に散りばめられた「さみしさ」風な共感が、主人公のみならず、愛のない登場人物にさえ抱いてしまう。読書をしながら、いつのまにか私自身について考えはじめている感じ。自らに問いかける。無言の返事。また問いかけるが、返事がないことが、最大の返事……。



 彼の周りにいる愛のない登場人物の面が、私自身、確かにある。
 かわいらしくも残酷で冷ややかな側面が、カードの一枚のごとく奥の奥の方に仕舞い込んである。
 私は主人公になりたいために読み直したのに、やはり、そんなものではなかったのか……。



 しかし、やはりそんなはずはなかった。主人公の身に注ぎ込まれぬままにあった「一筋の光」が、彼が祈るため叫ぶほどにあらわになり、やがて何処に何のため「光」があるのか、輪郭が見えてくるのだ。
 切実だ。読み進めるうちに味わう苦しみと快感は、計り知れない。にしても、残りページが減っていくうちに二律背反的に心が浮上していくなんて、ああやっぱり一筋縄ではいかないなあ!

 


 ラストの展開に圧倒されながらも、ページをめくる手は止まらない。めくるタイミングさえ吃りながらも作品を読み切っている私がいて、さらに完膚なきまでに打ちのめされる。はい、ここまでが『よだかの星』です。
 主人公に、私のどこかに、誰かのどこかに、遂にもたらされることのなかった「一筋の光」は、果たして何処にあったというのだろう。そんなメランコリーにあたった人のための、至上の処方箋。読んでください。そしてどうぞ、存分に打ちのめされてください。

 


 ちなみに、序盤で置き去りにしておりました食べられる方の『よだかの星』については、花巻市内のお店屋さんが販売しているそうなので、ぜひ調べて訪ねてみてください。せんべい風味なかりんとうと、味噌田楽かのごとくかかっている黒糖のたれが、すばらしくいいハーモニーを奏でておりますよ。
 なぜその和菓子を食したかというと、職場で先輩がおすそ分けして下さったのです。夕方近くの停止していた思考力には、たいへん素晴らしい効能がありました。この場を借りて御礼申し上げます。

いつかどこかで

 柄にもないことを言うようだけれど、悩みや落ち込みがぐんと減ったんだ。
1日中沈殿した心地で朝から晩までの日の流れを、対岸越しに見つめている。そういったライフワークさえちょっとした遠くの昔に感じてきた。しっかり苦悩している奴だけに信頼感を抱いていたのに、苦悩にも種類があることを知ってからは、ただ落ちていくだけにもがくことも、少し気恥しくなってしまう。自転車余裕で漕げる子どもがそれ以前のこけまくって膝をすり減って泣きわめいていた、アレが子どものより一段前の姿なんだな、と幼いながらに悟る、その感じ。
 賢く悩むって思いの外楽しくて、くよくよする自分を俯瞰して見てみると滑稽で茶化したくなる。本当にずん、と悩んでいるわけだがそこにふっとした軽さが入り込む。悩み方にも、方法ってあったんだな。



 でも、文章を書こう、という気分が心なしか薄まっている。
 それは書く気分書きたくない気分、とも似て非なるもので、気分によって左右されるにせよ、「書く」ことの揺るぎがなくて、本当に文章が好きなんだな、こいつ、と安堵する瞬間でもあるんだ。
 その「書く」が揺らいでいる。
 それはなぜか。
 体感だけれど、苦痛が減ったからだと思うんだ。

 

 軽い文章ならすらすらと書ける。
 そして日々の生活のことは喜んで書きたい。
 ただ、これまでにあった「伝えたいこと」に限っては、「書く」ことが遠い。
 書くまでもない、かもしれない、たぶん。ぐらいの戸惑いと揺らぎがあって、とくだん声を大にして伝えたいこともそれほど思いつかず、それを筆圧込めて原稿用紙に埋め込む如くインクを刻む、そこまでの「切羽詰まった熱情」も、今は落ち着いている。

 そんなこと、初めてだから戸惑う。
 またきっと再沸騰するかもしれない。けれど、いったん常温に下がっていくこの時にはそうは思えない。また熱は上がるだろうか。もう上がらず、止めるかもしれない。ええいと書きはじめて、未完に終わったことに何とも思わなくなっているかもしれない。

 自分の書き方が変わるんだろうなあ、というか、書く意味合いが変わりそう。
 仕事を中心に回っていく生活のなかで、どれをどうやって書いていこうか、見当つかないにしても何かすとんと納得するものにたどり着きそう。

 

 何とかなったこれまでの人生を振り返ると、たしかにそうだ。
 いつのまにか、ふとした何かで、落ち着いていくだろう。