春だったね

桜並木になる予定の枯れた木々が互いの枝をぱしぱしと痛めつけている冬の道を歩いている。生きるそのものが楽しいこと、悲しいこと、の二極でことが進むようにしか思えなくて、あそこに綿のような花が咲き誇った頃には悲しみの表情で見上げていそう。
桜の咲くのを眺めていることに楽しさが感じられず、いつも心の奥底で、畏怖に近い肌寒さを抱いている。それでも桜はあまりに見事に咲き誇る。毎年同じ美しさに、美しいものがただ単にそれだけならば、人は見上げることなく宴会だって開かない。美しさは悍ましいものなのだ。優しさだって悍ましい。心の内にある黒さを上手に外気に触れさす美的感覚の長けたそれを、人は「美しい」と形容するのだろう。


温暖な気候が日に日に増してきた東京、がっちりと固めた上着をいま、妙に恨めしく睨みつける思いがした。私たちはきっと季節を忘れるように出来ている。コートやダウンのいかつさが滑稽に感じるし、それを欲し依存して生活していた自分のことがはるか昔のことに思えた。ともすれば、1ヶ月前にいた私は、ささやかな物語の端役ほどの別人にも感じられた。「あの頃はどうかしていました」との言い訳はなるべく使わないことに越したことはないけれど、そう感じる瞬間に圧倒されながら、毎秒ごとに過去の自分にそんな札をかけてやる。


春が近い。春はすぐそこにある。もうすぐ、あそこ、あと数歩、とカウントする楽しみと、気がつけば汗がにじむ季節にまで通過した悍ましさが同居している今は果たして幸せだろうか。幸せかなあ、そうでないかなあ、幸せになりたいなあ。いまはどうかな。などと抜かしているうち、2020年の春を迎えてしまったら、どうするつもりだろう?

散文:風

風。窓を無造作に打ち付ける音で目が覚めた。外はまだ暗い朝。カーテン越しの空は紺から燃えだす直前のよう。今日は強風に荒れるのだろう。春一番って、いつのことだっけ。そもそも、そんな言葉は古来からあるわけでなくて、昭和歌謡がヒットしてから浸透したみたい。スイートピーだって、松本隆の手にかかれば店先が赤色の新種でいっぱいになるものだ。春一番が吹くのはいつだろう。白いスイートピーを見たことがない平成生まれが、乱暴な風に叩き起こされました。

 

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ふたたび目が覚めたころには朝ラッシュが過ぎた平穏な頃合い。まるで台風一過。1ミリも動いていないカーテンから覗かせる空は高く澄んでいて、昼の帳が開き始めていることを知った。いけない。遅刻だ。急いで支度をする。回収作業は、まず起き上がることから。起き上がる。起き上がれ。……起き上がれない。いや、ちがう、起き上がりたくない。どうしても起きたくない。そもそも、どうして起き上がらなくてはいけないんだ。誰が決めたんだ。私か!どんどん、言い訳が強力な壁としてそびえ立ちはじめていく。相変わらず、風は荒く窓を殴る。

 

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焦るときほど時間がスローに感じる。となれば動きもスローに反転して、しかし秒針はきれいに働く。遅刻が進んでいく。電話を掛けた。すみません、○○時には到着します、よろしくお願い致します。失礼します~……。ちゃっかり1時間半もの猶予時間を確保した。そうと決まれば、どうして動きは俊敏になっていくのだろう。

 

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あやふやに到着した新宿は、あいも変わらず風が強く吹いていた。ストレートパーマをかけて久しい素直な髪が、右に左に暴れていく。くせ毛だったものを素直にすれば、戻すのもひと櫛で簡単、お手軽。ストレートパーマにするデメリット、なし!私はこうしてまたひとつ、天然パーマから決別宣言をしたのでした。大都会の真ん中に、コンクリートでこしらえた広場がある。そこには、幾本もの花水木が植えられている。見上げれば赤い実のひとつやふたつは成っていた。軽やかに鳥が枝にとまる。赤い実にくちばしをやる。気が付けば、くちばしの中に消えていった。人工物みたいな赤い球体が、あの鳥の体内に摂取されていったが、そうなると、鳥のHPは回復していく。いいゲームバランス。

 

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北よりの風が和らいで、頬に触れるぬるさを感じいるたびに、北国の氷のイメージが消えていく。この世に北国なんてなかった、だなんて調子のいい考えが浮かんで、でもほんの少し前、東京でさえ北国だったのだ。東か西かの風がゆるっと吹いている。

 

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梅が咲いたら写真を撮りに行こう。たぶんきみは梅が似合う。あとは夕陽の差す荒川の河川敷。今の季節がいい。とか、考えはじめてまた私の人生が回りだす。「安心な僕らは旅に出ようぜ」と歌った曲の解釈は無限にあるが、たしかに、旅に出よう。

散文:ブルー

ビー玉。触れる機会の少なかった私は、体つきばっかり大人になった今でさえ、ほら、ビー玉を見るとときめいてしまう。手に取ると思ったよりずっしりと重みを感じ、貴重な生きものに触れている気になった。ガラスがうっとりするほど純に輝いていて、このビー玉の尊さに敵う円状の物なんて、きっとこの世には存在しないだろう。……と、すぐに散らかったビー玉を箱に詰め、ある親御さんからお守りを任された赤ん坊の、その涎がたらんとする口にティッシュを宛がった。体つきばっかり大人になった私は、分別さえつかない子どもだが、ビー玉にうきうきできる年ごろでもないことくらい、分かっているのだ。

 

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ビー玉に反射する檸檬色の太陽光。淡くてあたたかく、眩しいために目を逸らす。青く薄塗りされた上空で、威圧的なまでに太陽が燦然と誇っている。雲一つない、冬の青空。太陽はそれほど愛されている気がしない。だって、暑苦しくて、押しつけがましくて、相手の意見を聞き入れず、力で押し通す、そんな印象があるからだ。私は、やさしい月が好きなんだ。その斜陽に目を細め、オフィス街を歩くたび、夏なんざすぐそこだ、と忌々しい気になってしまう。

 

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透明度の高い青空。まるで一本の糸を左右に薄く薄く引き伸ばしたわずかな色味と十分な水分によって満たされた、完璧な青色。高くて、遠くて、薄くて、私にはそれくらいが丁度いい。そのくらいの色の薄さ。それだけのやさしさ。

 

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青色を描くのは上手な人がいた。私はその人の青をもっと見てみたくて、それはその人にも会いたいのと「青に触れたい」の両面でせめぎ合ってしまうほど、青に惹かれてしまう。青色はやさしいんだよ、あたたかいんだよ、むなしくもなるよ、だなんて気が狂ったか、と笑われるのがオチだろうか。笑っている君らにだって、そんな時代があったろうに!

 

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宇宙飛行士の眺める地球の青さと、幼き赤子の愛するビー玉の青。
太陽光の檸檬と月光の檸檬
日の出と日の入り手前に燃えだす空には、
うつくしく青くにじむそうです。
ルール・ブルー。
みたことがありますか。

宛先はドトールに

安くて居心地のよい喫茶。日本津々浦々に繁殖する休息の旗手。といえばドトールのことである。ところでみなさんは、ドトールカードをお持ちですか。そのまえに、ドトールに通っておりますか。そもそも、ドトールを知っておりますか。

私は昨年秋まで、ドトールに通ったことがあるのは、指をひとつ、ふたつ、折るくらいのものだった。ひとつ、ふたつ、で事足りる回数というのは、つまり私に喫茶の場は必要なかったのだ。喫茶がなくても生活は回っていた、というよりは、喫茶を必要とするほど、生活のコマは回りはじめてもいなかったのかもしれない。


そんな私も、今やドトールの会員だ。ポイントもじゃんじゃか稼いで、あと1,000円で、来年度からはゴールド会員に昇級だ。ゴールド会員になった暁には、付与率が10%にあがるうえに、グリーン車が生涯無料のパスが郵送される(嘘だ)。


安くて居心地のよい喫茶。居心地のよいわりに安い喫茶、ともいえる。そんなドトールが私は好きだ。よくいわれる、「コスパがいい」というものだ。ポイントだって貯まるし。しかしかつて、古舘伊知郎さんが「コスパがいい、だなんて、作り手送り手が語るべき言葉なのに」ラジオで語って以降、少し憚られる。言葉は精緻な生き物だと思う。


話は逸れたが、私はドトールが好きだ。この言葉遣いはきっと正しい。人が何者かを好むことに慢心はいらない。きっと。だからドトールが好き。しかし業績は傾いてきているという。その背景には、コンビニチェーンの展開する挽きたてコーヒーが幅を利かせているから、だそう。

何度か私も利用したことがある。自分で容器を手にしてレジへと向かい、自分で機械にセットして、挽きたてコーヒーの完成を待つ。香ばしい匂い。あたたかい容器。火傷する舌。やってみて、毎回、全部の工程にワクワクする。でも、やっぱりドトールが好き。私はコーヒーを飲みたいわけではないらしい。220円のこじんまりとしたカップをくゆらせて、1,2時間ほど無になることを、私はより求めている。


無になる。私は無にならなければ、今の生活が回らない。矯めて矯めて、放つためのひととき。勢いよく突っ走るための、ネジを引き尽くすチョロQ。内定を頂くためのドトール。心なしか萎れる思いがする。が、私には必要なのだ。

その必要と語る無のひととき、私は何を得ているのだろう。何も得ていない気がするが、それはだって、無になりたいのだもの。ずっと、「無の振る舞い」がわからなかった。目が覚めてまた瞼を閉じるまでの日中帯を過ごす以上は、何もしないことが、本当に何もない人間に思えて、いたたまれない。生活しているのかな、毎秒生きているのだろうか。そんな自問自答が続いていた。

しかし、無でいる時間は、何も得なくてよいのだ。起きていようと、生きていようと、何もなくていいときは、何もしたくないときは、そのままでいることが、なによりの成果、なのだろう。


そうして自己弁護して、またドトールの220円のこじんまりとしたコーヒーを注文するけれど、許してね。ゴールド会員になってもいいですか。間違っているのでしょうか。

散文:交差点

傲慢さを感じている。外は雨が降っているから、気温が急に乱高下をはじめたから、いろんな予定が区切りのついたから、そもそも、夜だから……。さまざまな言い訳は思いつく。だから私は違うんだ、と、今すぐにでも口にする準備はできている。ただ、また一度考えてみる。夜でない時に、予定が立て込んでいるなか、穏やかな気候のなかで、私は傲慢でない、といえるだろうか。胸に迫りいる。突きつけられている。駅前ははカラフルな傘の交差が繰り返されていて、その粒子に飛び込めば、私もまた傘のひとつにはなるだろう。でも、それでいいのかい。


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目が痒くってきた頃には、春が近い。時すでに遅し、花粉が飛来する。目をこすり、いっときの気持ちよさを覚えて、忘れたころにはまた目をこする。目の充血も腫れも構わずに、5歩も進めばまた忘れて、目の痒みを取り除く。


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前に入った喫茶では、アントニオ・カルロス・ジョビンの『トゥー・カイツ』がかかっていた。懐かしい思いがした。あるパーソナリティが、ラジオ電波に乗せて教えてくれたこの曲が、やけに夢らしく浮遊していて、生まれる前の古めかしさがあって、でも私に歌っている気がして、堪らなくなった。


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アレルギー薬を服用すれば、花粉症は改善されるらしい。雨は先ほどあがったものの、鈍くなった地面がふたたび濡れだした。バスはひっきりなしに発車して、車内は空席もあれば満員のもあって、でも、皆帰路についていることはかわりない。私も同じで、このあと、傘をさしながら家路を急ぐ。


それでいいのかい。

散文:いろいろ


コンタクトレンズをつけることのいちばんの利点は、メガネをかけずに済むことだ。そりゃあそうだ、というはなしなのだけれど、メガネをかけずに済むならば、それはたいへん嬉しいことだ。メガネの重さは侮れない。結構、顔から肩にはじまって、凝りが全身に回っていく。メガネは身体が凝りやすい。コンタクトレンズのよいところはそこと、マスクをかけても視界が曇らないところ。唯一の欠点は、終いがないほど高価なこと。嗜好品みたいな気持ちになって、どうしてもメガネをかける日が多い。肩凝りよりもお金が大事。お金よりも肩凝りの方が好き。


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交差点の横断歩道、青信号の点滅の回数とか、よく見たことがありますか。私はしきりに確認しては「ここは8回だから〜」とか「ここは12回だから〜」とか、勝手に理由を分析し満足する。私の考えはこうだ。点滅の回数の多さは、人通りの多さと比例する。人が多ければ多いほど点滅するということだ。なんとまあ、当たり前すぎる。これを中学時代からずっとやっていて、思春期のはじまりは交差点の点滅を意識することだった。同級生の女子を好きになるとかなんとか、殊勝なことはなかった。


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木々が裸。取り壊された家屋のそばを通ったら、新しいマンションが建っていた。今、より前のことを思い出せない。木々が青々と誇っていたことも、煤けた家屋も、思い出せない。以前、この現象をどこかの論文が発表していたことがあった。ツイッターでまわってきたが、結局、中身を確認せずに「ああそうなんだ」程度で仕舞われた記憶が、こんなところでほんのちょっと重宝されるだなんて、夢にも思わなかった。


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新しい小説を書こう。はじめて書いた小説は、16だか17だかの頃だった。それから書き上げたものはなかったが、26になってようやく、およそ10年ぶりに記録が更新された。創作する機会に恵まれ、ひいひい呻きながらも出来上がった。愛らしい。愛おしい。愛に満ちているが、読み手にとっては縁のある小説ではないかもしれない。できれば縁の多い人生を歩んでほしい、と思うのは親の情というもの。


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やっぱり、とも思うし、意外や意外、とも思う。書くことができるものが増えた。これは10年間、無意識に培ってきたものがあったのだろう。なにを培ったのだろう。貪欲な生き物だと思った。忘れたり身につけたり、やったりやめたり、いろいろだ。私の通うピアノ教室の先生は、いろんな雑談をしていただく。だいたいが教室の生徒さんにまつわるいろいろなこと。Aさんの就職、Bさんの旅行のこと、Cさんの親御さんの老後のこと、先生ご自身の身の上……。気がつけば、あっという間に時間が経っている。もうひとつの家族のようだ。その先生が必ず締める言葉は、「いろいろだねえ」。いろいろだよねえ。いろいろだよ。その言葉を思い出しては、なにかがあっても、なにもなくても、「それ以上ないんだよなあ、いろいろだもの」などとわかったように感じ入り、どこかに仕舞い込む。

Re-当駅始発快速東葉勝田台行き

冬が寒いものだと、あらためて感じ入る季節になった。

東京の冬は一面的かといえば、実のところは違う。1月までの乾いた冬と、2月からの湿気った冬。この街は季節が巡るうちに忘れてしまい、冬が来るたび感覚を取り戻すのがいつものことで、そこでしか生活していない私も含めて、ああ、そうだったなあ、なんて呆けた顔で思いだす。
この頃は雪のちらつくようになった。粉砂糖を振り落とす細かい雪が静かに落ちる。この冬は積雪の心配もなさそう。しかし粉雪はゆらゆらと落ちていく。拍子抜けするほどのどかにやっていて、心が解ける思いがした。もう湿気った冬になった。


さっきまでクリスマスのことをしきりに考えていたのに、いつのまにかバレンタイン。ラジオから流れる曲も阿呆のようにめざとく寄せた音楽ばかり流れている。あなたがたが大切にしている音楽はこんな平面的な扱われ方をされるために産み落とされたわけではないのに、作り手は腹が立たないのだろうか。私は一瞬だけ血が上って、でも、そんなものかあ、と内臓に下げていく。だいたいみんなそんなものかな。ささやかに今クリスマスソングを聴いてみる。
今年は、羊文学の『1999』と、サニーデイ・サービスの『Chiristmas of Love』が素晴らしかった。「クリスマスソング」の枠の中で落とし込むのが惜しい曲が私は愛おしくて、これから先も全シーズン好んで触れそう。奇しくも羊文学は夜に、サニーデイ・サービスは昼に合うので、少なくとも、全日これで、このまま冬を乗り切れそう。粉雪が舞えば寒さも和らぐ気がしているが、もしかしたら、クリスマスソングを流すラジオ局も同じ心理で電波にのせているのか。冬は冬らしく、多少は積もれば凍てることもないのかな。


雪でいつも思い出す。
私が成人になった年、それも成人式の当日に、東京が大雪に見舞われた。もちろん交通機関は麻痺し、街は荒れに荒れた。目の前で転ける人をよく見かけた。それに気を取られ私も転けた。足元ばかり気にしなければ歩くことも難儀する。雪国では暮らせない。だからという理由にしてしまうが、私は成人式には出席しなかった。
会場は豊島園。例年ならば、式が終われば無料でアトラクションに乗り放題。振袖袴で楽しく遊びつくせるところ、大雪となればどうだったのだろう。でも、どうせ倍々の高揚感で楽しんだのだろうなあ。
と、ここでひとつ電話がかかってきた。中学時代のクラスメイト。変わり者だと笑われていた奴だった。いい奴なのだが、変わっていた。あまりに久しぶりのことで、着信画面のフルネームからして変な名前だなあ、と錯覚してしまう。べつになんてことない、いい名前なんだけれど。
「あ、大山? 今どこにいるー?」
と、あの頃と全く変わらぬ調子。一気に中学時代に引き戻された。明るくも暗い思いがする。触れた途端にぬめぬめと生暖かい、気の抜けたゴムボール、みたいな不気味さが漂うままだ。ごめん、俺は行っていないわ、と伝えると、
「ああ、そうなのかー。誘える奴誰もいなくて電話したんだけどなー、どうしよっかなあ」
間延びした声と、あいも変わらずちょっとずれた立場で、心が解れていく。まったく変わらない、ドライな風合いが救われた。変わり者で腫れ物だった彼は、私を腫れ物扱いすることなく、そのまま電話は終わりに向かう。
「じゃあ、バイキングでも乗って帰るかなあ、またな!」
切れた直後、もう会うこともないのだろうなあ。だって成人式だからなあ。今生の別れの予感がした。べつに彼は生きているが。たぶん。
案の定、彼を知らないままだ。


粉雪が舞うのが毎日のものになった。気圧が大きく上へ下へと揺れまくって、偏頭痛に悩まされる人を多く見る。私も頭が痛く、眠く、怠く、散々。
どうせ降るなら積もりやがれ。積もれ積もれ。荒れろ荒れろ。すべて麻痺してしまえ。そんな瞬間、ちょっと昂奮するのはどうしてだろう。