Cream Lemon Soda

昔の夢をみました

ひとり・ひとり・ひとり?


自分が今まで当たり前に思っていた生活が、否応なしに変わらざるを得なくなった。自由に外に出られない。人に会うこともできない。ないないだらけの生活だ。茫然と立ち尽くすことになる、と身構えた。

ところが蓋を開けてみると、意外な日々が待っていた。そのひとつが、「ひとり」の解釈の変化だ。


今この生活で、私の隣には母親のほかに誰もいない。もちろん、人に会えなくなって、喫茶でお喋りとか、居酒屋で笑ったりとか、そんなことができずに、かれこれ1ヶ月半は経った。

たしかに、とても寂しい。でも、意外にも心に毒なものじゃない。あまつさえ、少しあたたかい。


ここには誰もいないのに、はっきりと今、人が隣にいる。

こんな相反する思いが同居しているのはなぜだろう。すごく不思議な気分だ。ただ、「同居できないものが同居してしまっている」のではなく、「同居できるようになった」と受け取った方が自然なのかもしれない、とも思った。なにしろ今、生まれて初めて物理的に誰にも会えないのだ。実際にひと目見れなくなってから、新たな人の会い方や接し方の模索が喫緊の課題になったとしたら、どこかで折り合いをつけて、生理的に解釈をして生き残ろうとしているのかもしれない。

記憶や想いで、いつでもその人たちに会っている? いや、そうせざるを得なくなってから、身体の特定の機能が発達をはじめた気がする。スマートフォンの普及で情報処理能力が高まった一方で、文字の書き取りに不得手になったのと同じに思う。

「ない」とか「ひとり」とか、うちに籠もる生活は発見に満ちている。しかも、発見は往々にして、それ以前の自分の「当たり前」を颯爽と斬るものだった。これまでの生き方ってなんだったんだろう。っていうか、「これまでの生き方」って、これもういいや、と脱ぎ捨てるためにあったのだろうか。

やー。斬られたわあ。

fiction ; fighting against fuckin' words of love

いけ好かない奴らをまとめて殴りかかり、スカッとしたところで掛け布団が暑いことに気付く。頭の中でザッザと顔でも腹でもパンチしたところで、実害はないかと思いきや、身体中の血流が3倍速したのち逆回転を始めた。夜だ。「ありもしない出来事」というタイトルのARを額にかけ、いけ好かない奴らに殴るか蹴るか、言葉で責め尽くすかしてスカッとしたところでダンボール製の輪っかがじわっと汗ばんでいた。

ここは現実であり仮想空間である。何をやったって自由だ。すべてを嘘とすれば、俺は人に殴ったことがなく、その逆も保証されるはずだ。精神の病にかかってから朝も夜もなく乱交に明け暮れたが、さあ果たしてこれが嘘か真か正義か悪か、それがなんだというんだ。たとえ是非が定まったとして、人の肉の、熱く存外に硬いこの感触、かつ快感だけが夜にいつまでも取り残され取り残され、忘れたころにふとフラッシュバックに全身が感じることだろう。


例えばそれが、深夜1時スタートのAMラジオであったとしても、誰にも責めさせはしない。

まったく大変なことになりましたね

まったく大変なことになりましたよ。

ひと月前には誰が想像出来たでしょうか。COVID-19がここまで私たちを沈黙させるなんて。マスク越しでさえ咳ひとつ許されないこの雰囲気!会いたい人には、後悔しないため今すぐ会うのをやめよう、と、そんな価値観が共有される時代が訪れるなんて!
しかもこの'20年代に、社会が根底からひっくり返りすぎることなんて、戦争以外にあったのですね。センセーショナルすぎて、ポスト・コロナの時代に期待感を抱いてしまうのは不謹慎でしょうか。

この状況で、多くのことを知りました。
在宅勤務の素晴らしさに驚いたり、室内からストレスフリーにする大切さを知れました。部屋を掃除するとか、いらないものを捨てるとか、あとよし言葉とかですね。

が、いちばん思い知ったものといえば、外の風の淡さや陽射しの柔らかさ、ケーキショップから漂ういい匂い、東京特有の煮詰めたような雑踏が心のちょっとした隙間を埋めてくれていたこと、近所のペルー料理店の店主さんがいつも退店の時外まで見送ってくれる優しさ、毎日出勤するルーティンのハリの強さ、マイデスクの佐久間式ドロップのそこはかとない甘さ、雑談中、ちょっと毒気を入れたい時の燃える感じ、退勤してオフィスを出た瞬間の五反田の街並みの気風の良さ、友人とのちょっとしたつもりが数時間の飲み、ちょっとしたつもりが0:45発保谷行き終列車……


つまり、私が当たり前に流していた当たり前の生活を、今とっても平然と反復したい思いの強さ。この欲求があまりにも強くて、持て余して仕方ない。寂しいです。


しかし、必ず生活は戻ります。
根拠があるとかないとか、そんな話以前に、私たち人間はそうせざるを得ないんです。生活にノスタルジア感じすぎて禁断症状が出まくる弱い生き物ですね。


みなさん、またお会いしましょうね。

それこそが、トランポリンガール、でしょう?

「女性が男性を持ち上げる」って、近代からずっと取り入れられてきたけれども、それはもう、生き物として矛盾しているのだと痛感する。凄まじい表現者がいたら、出来るだけいっぱいに表現してもらいたいし、その環境を全力で整えたいって思うでしょう。男性にとっての女性はそんな存在だと、一度知らなくては話が進まない、と思った。

‪男性って女性のためにいるのかも、と思う瞬間がある。ああ、敵わないわ絶対的な負けだわ、って思い知って打ちひしがれて、心地よかったり不気味だったりな電流が走って身体中に力が入らない。もしジェンダーの不均衡だと言われようと、その言葉も伝わらない。‬圧倒的な無力感なのに、生まれる前から知っていたような安堵に満ちている。

男尊女卑って、誰が考えついたんだろう。どうして2020年のここまで流れ着いてきたんだろう。人を見る目があまりにもなく、それが私たちの世代まで繋がっているのは、真っ先に恥ずべきことなのだ。

実態のない、得体の知れない領域の話でした。

備忘録「障害者雇用」

障害者雇用は、雇用主が慈善的な姿勢でいると、すり減っていく。いっぽう雇用された側にとっても"限りある資源を尽くしてくれている"ことも、有り難さの裏返しにしてしんどくなる人は思うより多いだろう。そこに応えられているか不安になったり、自責の念に絡み付いてしまうことも、想像よりも沢山いるだろう。

個性を伸ばすにも人的な資源がいるが、"穴の空いたバケツに水を入れる"ないしは"穴の空いたバケツなのに水を入れてくれる"状況を防ぐには、なんらかの利益……還元される実感……がなければ、きっと、遅かれ早かれ、恐ろしい"反動"が加速するかもしれない。


だから、誰もが何度も冷静に立ち止まり考えなければならない。雇用主が個性を伸ばすのは、障害者雇用に限ることではないことを。それら慈善ではなく、全社員に遍く果たす義務だ。だから、障害者雇用を慈善から義務へ、それより先の社会への還元に至る導線が、より一層可視化されなければならない。可視化の第一歩の象徴に障害者雇用の社員が立っている、と自覚している。

前進するには、障害者雇用の社員が増えることも大切だが、雇用された社員が懸命に働き続ける姿勢を見せなければ、この流れは一瞬にして後退していくだろう。信頼関係でいうと、誰もが初めから"ひとりの人間"として期待されているのだ。


立場のジレンマを抱えたり、不意に自信喪失に見舞われつつも、今は自分の限界を知りながら、精一杯に働こう。

今は、と言ったが、きっとこれができる全てだ。

燐光

昨日がこれで、今日がこれで、明日はこれ、と見立てる一方で、私は何ひとつ手を出せない。それは自然科学のようで社会学のようで哲学のようで、またそのいずれでもない。自然が緑であること、ひとつの現象が発生したこと、命があり精神があることは、たしかな言語をもって描写されるが、私たちの湧き上がる心象すら、私たちは知る由もない。

そういえばあの人は元気にしているかな、と思い出し、返す刀で元気にしている予想をつける。煙は吐くごとに溶け出し青空に希釈する。

青空のもとで生き続ける私たちは、おしなべて理由なくここにいる。言語は私たちの脆弱性を照射し、命に温もりを与え続ける。

冬影踏みしきる

どうも雨の日は身体にかかる重力が強まるもので、慣れっこになることなく27年もの月日が経った。

そんな日の朝の山手線は1人あたりの容量が1.2倍に膨れていて、ドアの隅で圧縮袋の掛け布団みたいにくちゃくちゃになった私は、辛うじて上空を見上げた。柔く握ったティッシュみたいに間延びした雲が果てしなく広がり重なっていた。ふと、これは誰の仕業だろう、と物想いに耽ってみようとも、遅延の煽りを食ったまま、この山手線は自転車よりも遅く進む。


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昨日、雪が降った。雨にしてはフワッと粒立っていて、音もなく落ちていったのを感じるや否や、無性に肌寒く思える鈍感な体温調節の機能だ。寒い、って、誰のどこがそう言っているのだろう。


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酒を飲もうかと冷蔵庫の缶ビールを手にした。が、すぐに戻し扉を閉める。ぱたん、と、なんとまあ、乾いているんだか湿気ているんだか煮え切らない音だこと。
飲もうにも、思い出せる肴があるようでさして見当たらず、酔おうにも酔えない。どっちでもいいことだがどちらかを確実に選びたいし、選んだあとの予想図はいつも気持ちのピークを過ぎているし。
缶ビール、飲みたいと思った矢先に、何かの反動で強烈に、そんなもん飲みたくもないと眉を潜めることもある。


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眠る前の、消灯する瞬間がちょっとだけ苦手だ。眠らなければ明日に響くから、真っ暗ななかじっとしているけれど、私はじっとしているときに、いつも誰かを待ち続けている。
カーテン越しの夜の方が明るいのに、自室はあからさまに真っ暗ってどういうことだか分からなくなり、もはや夜ってあっちの方が正しいのかもしれない。あっちの夜から誘われているけれど、私はこっちの夜で眠らなければならない。きっと、あっちの誘惑から勝つために、もっと大切な誰かを待ち続けている、という仮定。
しかし、それは誰の仕業か、誰も知れたものではないのだ。


明日の想像して眠る。