Cream Lemon Soda

昔の夢をみました

Sony α7ⅲを買いました

お久しぶりです。長々と更新が途絶えてしまいましたね。
書く習慣がすっかり消えかかっていました。
すらすらとした文章を書けるまで、ぽつぽつと文章を書いていきますね。
今回は、ライトな感じでいきましょう。

 

さて、今回はタイトルの通りです。
ありがとうございます、Sonyのαシリーズから、α7ⅲを買いました!ありがとう!

はじめてのSony。はじめてのフルサイズ。はじめてのミラーレス。
なにもかもが初めて尽くしのカメラを手に取りつつ、撮るのが楽しくて仕方ないです。


https://www.instagram.com/p/B0qasAVAl6r/

珈琲伯爵 池袋東口



まず、Sonyのαが出す色味の心地よさったら!
この色味、フィルムの風味に似ています。
例えば、夕暮れを見たときの弛緩と気だるさの色味や、
夏の夜の湿った空気に交じる涼風が、心地いいなあ、と感じる瞬間を、
もしも色で表現するならば……? とのイメージにとても似合う。
なかなかデジタルカメラの撮影ではバシッと決まりにくい色味を、
α7ⅲでは即座に出してくれます。本当に楽しい。
フィルムの色味では、KodakのPortra 400に似ています。

https://www.instagram.com/p/B0V-plAAxp_/



また、驚いたのがフルサイズの凄みです。
フィルムの風味を損なわず、細かな描写までしっかり見せている。
これが妙味で、前面に出してほしいもの(≒ピントに合わせているもの)を
迫力と表現力・精緻さを存分に発揮していて、凄い……!怖いほど凄い!
撮った瞬間にヒッて仰け反る楽しさがあります。

https://www.instagram.com/p/B0qMWqrANoj/

 


で、ミラーレスってなんて撮りやすいんでしょう!
これまでCanon EOS Kiss X7を使っていたのですが、
ミラーレスでの撮影を知ると、
ファインダーを覗く作業にも好みが分かれるのだろう、と感じるように。

ファインダーは、視界を撮影に没入できる点が特徴でしょうが、
それを「撮影に没入できる」と受け取るか、
「周囲の視界が遮断される」と受け取るかは人それぞれでしょう。
私はその点、ミラーレスでの撮影が向いているかもしれない、と感じました。
たとえば街中で撮影するとなると、
通行人や乗用車の往来、街の騒音、色とりどりの情報、
24時間365日、絶えず続く環境変化の一部となって撮ることになります。
ここでカメラと身体をちょっと離すあたりで撮影する感じが、
空間に溶け込んだ気分になるのですよね。リラックスしながら撮れる。

 

https://www.instagram.com/p/B0vP17VgEY_/

 


まあ、小癪なことを並べておりましたが、
ミラーレスは楽なものです、本当。
撮ったものもWi-Fiスマホに飛ばせますしね。便利。

 

ということで、仕事の鞄にも忍ばせています。
撮るのが楽しく、毎日1枚は撮りたいな、と!

https://www.instagram.com/p/B0jCC7yAaZx/

 

よだかの星

 よだかの星を食べました。
 ……との書き出しがいかにクサくてイタいかはよくわかりますが、これは表現描写のものでなくて、実際に口に運んだのだから仕方がない。

 


 ぴんときた方もいらっしゃるだろう。『よだかの星』とは、宮沢賢治の短編名だ。岩手に生まれ、愛を渇望し、そして布教に殉じた宮沢賢治の遺した作品のひとつにして、金字塔。一等星。祈りの愛。というか愛。誰も可愛くないのになんだか愛。作品中、主人公に向けられるものが誰にとっても愛ではないのに、読後感はまたひとつ性善説に賭けたい気になるから宮沢賢治は神。いくらでも褒められる。というか褒めているうちに1年を終えたい。
 何か、くじけそうになった時、自分自身で大切にしている信念(なんて大それたものでもないけれど)に疑いを抱いた時に、よく読み返す。詳しいストーリーは読んでいただきたい(のと、自分が読後感しか残らない読書をしているから紹介もなにもできない)。読んで。30分あれば読めるから。

 


 にしても、あの作品は短いわりに屈折感があって、なのに真っすぐにも思えてしまうのは、癪だ。気難しくて、嫌気も差して、でも避けることもできなくて、やりきれないままに生命力が満ちていく。
 主人公の境遇は、とにかく救われない。ストーリーが進むにつれ、救われることのない境遇に光が差すどころかいよいよ窮していくのだから、より救われない。遂に主人公は、人生への絶望感が絶頂へと到達する。そこからのスピードは加速に次ぐ加速。暴れ出す生命力は一筋の光となって、エンドロールへの全力疾走を遂げる。

 それだけ知ると「悲痛な物語なのだろうか」と感じるかもしれない。しかし、ここが不思議さと屈折さの妙味なところで、印象は、悲痛、というよりか哀愁に近い。
 全体に散りばめられた「さみしさ」風な共感が、主人公のみならず、愛のない登場人物にさえ抱いてしまう。読書をしながら、いつのまにか私自身について考えはじめている感じ。自らに問いかける。無言の返事。また問いかけるが、返事がないことが、最大の返事……。



 彼の周りにいる愛のない登場人物の面が、私自身、確かにある。
 かわいらしくも残酷で冷ややかな側面が、カードの一枚のごとく奥の奥の方に仕舞い込んである。
 私は主人公になりたいために読み直したのに、やはり、そんなものではなかったのか……。



 しかし、やはりそんなはずはなかった。主人公の身に注ぎ込まれぬままにあった「一筋の光」が、彼が祈るため叫ぶほどにあらわになり、やがて何処に何のため「光」があるのか、輪郭が見えてくるのだ。
 切実だ。読み進めるうちに味わう苦しみと快感は、計り知れない。にしても、残りページが減っていくうちに二律背反的に心が浮上していくなんて、ああやっぱり一筋縄ではいかないなあ!

 


 ラストの展開に圧倒されながらも、ページをめくる手は止まらない。めくるタイミングさえ吃りながらも作品を読み切っている私がいて、さらに完膚なきまでに打ちのめされる。はい、ここまでが『よだかの星』です。
 主人公に、私のどこかに、誰かのどこかに、遂にもたらされることのなかった「一筋の光」は、果たして何処にあったというのだろう。そんなメランコリーにあたった人のための、至上の処方箋。読んでください。そしてどうぞ、存分に打ちのめされてください。

 


 ちなみに、序盤で置き去りにしておりました食べられる方の『よだかの星』については、花巻市内のお店屋さんが販売しているそうなので、ぜひ調べて訪ねてみてください。せんべい風味なかりんとうと、味噌田楽かのごとくかかっている黒糖のたれが、すばらしくいいハーモニーを奏でておりますよ。
 なぜその和菓子を食したかというと、職場で先輩がおすそ分けして下さったのです。夕方近くの停止していた思考力には、たいへん素晴らしい効能がありました。この場を借りて御礼申し上げます。

いつかどこかで

 柄にもないことを言うようだけれど、悩みや落ち込みがぐんと減ったんだ。
1日中沈殿した心地で朝から晩までの日の流れを、対岸越しに見つめている。そういったライフワークさえちょっとした遠くの昔に感じてきた。しっかり苦悩している奴だけに信頼感を抱いていたのに、苦悩にも種類があることを知ってからは、ただ落ちていくだけにもがくことも、少し気恥しくなってしまう。自転車余裕で漕げる子どもがそれ以前のこけまくって膝をすり減って泣きわめいていた、アレが子どものより一段前の姿なんだな、と幼いながらに悟る、その感じ。
 賢く悩むって思いの外楽しくて、くよくよする自分を俯瞰して見てみると滑稽で茶化したくなる。本当にずん、と悩んでいるわけだがそこにふっとした軽さが入り込む。悩み方にも、方法ってあったんだな。



 でも、文章を書こう、という気分が心なしか薄まっている。
 それは書く気分書きたくない気分、とも似て非なるもので、気分によって左右されるにせよ、「書く」ことの揺るぎがなくて、本当に文章が好きなんだな、こいつ、と安堵する瞬間でもあるんだ。
 その「書く」が揺らいでいる。
 それはなぜか。
 体感だけれど、苦痛が減ったからだと思うんだ。

 

 軽い文章ならすらすらと書ける。
 そして日々の生活のことは喜んで書きたい。
 ただ、これまでにあった「伝えたいこと」に限っては、「書く」ことが遠い。
 書くまでもない、かもしれない、たぶん。ぐらいの戸惑いと揺らぎがあって、とくだん声を大にして伝えたいこともそれほど思いつかず、それを筆圧込めて原稿用紙に埋め込む如くインクを刻む、そこまでの「切羽詰まった熱情」も、今は落ち着いている。

 そんなこと、初めてだから戸惑う。
 またきっと再沸騰するかもしれない。けれど、いったん常温に下がっていくこの時にはそうは思えない。また熱は上がるだろうか。もう上がらず、止めるかもしれない。ええいと書きはじめて、未完に終わったことに何とも思わなくなっているかもしれない。

 自分の書き方が変わるんだろうなあ、というか、書く意味合いが変わりそう。
 仕事を中心に回っていく生活のなかで、どれをどうやって書いていこうか、見当つかないにしても何かすとんと納得するものにたどり着きそう。

 

 何とかなったこれまでの人生を振り返ると、たしかにそうだ。
 いつのまにか、ふとした何かで、落ち着いていくだろう。

令和への誓い

より多くの毒にはより多くの毒を持って制する図式に基づき、私たち平成世代のメインカルチャーはカジュアルなハードセックスへの傾倒を進めているが、それは愛の話題ではない。


現在の私たちは、体内への毒の供給量がゾーンに入った狂い方をしているために、解毒するだけで一日を終える。ツイッターが廃れないのは、いつまでも訳もわからず毒を所望している私たちがいるからだ。これは確信に近い。というかフツーにそう思うだろ?
毒が体内に回っていれば不憫に立ち回れるから、進歩やら未来やらに目を向けなくていい。不憫に立ち回るうちは風邪の子供を看病するママがどこからともなく現れる。私たちは、本当はそれをよく知っている。熱さまシートでも貼り付けて、熱湯で茹でた体温計を見せびらかしながらバブバブ甘えてろ。でも、赤ん坊役の私たちも、ママ役の私たちも、どうせ毒に浸って自家中毒を起こしたままに死んでいくぞ。誰の素顔も知らず消えていくぞ。


不全感は他者がいて初めて満たされるものだと知りながら、私たちは他者の慮りを微塵も見せず自分の解毒に忙しく立ち回る。「他者は自分の解毒のための手段なのだ」と言わないまでも振る舞いでバレる。洒落にならないほどダサい事実なので、隠し方が上手くなる。言い訳も上手くなる。こうして私たちは、その特異に高度な脳機能をフル活用し、日々の逃避方法を必死になって編み出すようになった。

でも、腐った根元を野放しにして、目先の取り繕いに頭脳を働かせて、ふと、立ち尽くすことはないか。私たちは、なにをしているんだろう、と、虚しくなることはないか。私たちの生んだこの時代、いったいなにを生んだんだ? ゾッとして、なにもかもが、なにもない気にならないか。


不全感の解消には他者が不可欠だが、換言するならばそれは「愛せよ」だ。愛することから逃れずに、覚悟を守り頭脳を駆使し苦闘せよ、と、訴え続けているのだ。誰が訴えているか? 私たちひとりひとりが、内発的に訴えていると、野暮にも言わねばならないか?
私たちは知っているはずだ。どれだけツイッターで呪詛を連ねようが拾おうが、どれほど豪快かつ手当たり次第にセックスを重ねようが、この不全感と虚しさが晴れるわけがないことを。いくらそれらが高度に正当化されようとも、根本の腐った極みみたいな生き方が肯定されないこと、なによりも肯定しない自分自身がいることを。私たちは知っていたはずなのに、なんて無残な平成の終幕を迎えさせてしまったんだ。
私は、私たちは、私や私たちの良心を裏切ってはならない。そんな自殺の反復を令和に持ち越すことが、悲しくて仕方がない。その為に、私たちは共助しなければならない、笑い飛ばさなければならない、取り澄ました表情をなるたけ忌避しなければならない、全力でぶちまける熱を抱き続けなければならない。


私たちは、絶対に大丈夫な時代を作れるから、私たちは絶対に大丈夫だ。令和が近い。自分にガン飛ばして生きてやる。

梅雨の前

傘を持たず家を出て、行きの電車で雨が降り始めた。午前9時すぎの電車は急に本数が減るが、乗客の減り具合と釣り合わない。山手線渋谷品川方面行き。無理にでも乗り込み、ドアにへばりつく。高田馬場に着くと、さらに混んできた。早稲田大学の学生をしている友人は、高田馬場が好きでない、と言っていた。私もよくわかる。高田馬場には慣れない。新宿から池袋までのひと駅でも、埼京線を使う。
新宿で多くの乗客が吐き出された。その勢いに押され、私もホームに出たものの、車内に戻る気になれなかった。雨は止む気配がない。梅雨のような静かな雨は長い。
湘南新宿ラインのホームへ。座れた。動悸が落ち着くや否や、眠気が襲う。目がさめると目の前には相模湾が広がっていた。
ものを書きたくなった。創作でも散文でもなんでも書きたい。私の書くものに意味付けがなければないほど達成感がある。対向列車が来ない。帰る気にならない。駅を降りる気も起きない。電車を待つのも嫌になる。雨が線路に打ち付ける。いい加減頑張らなくていいと諭すような静けさが怖い。

高橋ささら

 おそろしく東京は暖かくなり、追いつけない身体が置き去りになったまま。春に気付きだしたころにはその季節は折り返しを過ぎている。花粉に喘ぎながら見る桜。こいつ、知らないうちに咲きやがった。見事な姿。美しい。どうしたって浮ついている。下から望むほどに、季節も街も勝手に淡々しく染まっていくのを、冷えた身体が眺める構図。

 

 内定を頂いた。就職活動を本格的にはじめてから早半年。思いがけず、目の前にポンと現れた「内定」の2文字。言う分にはタダだから「ほしいなあ~」とは何遍も口にしたものの、いざ自分が得るのだと思うと、呆然としてしまった。内定って、どういう意味だっけ?

 とかなんとか実感を伴わずも、有難く頂戴することにした。これからお世話になります。どうぞよろしくお願い致します。身体が置いてきぼりの季節に、心の追いつくのを待ちながら、私は5月から社会人になる。本当に、私のことなのだろうか。パラレルワールドの大山ささら? 同姓同名の大山ささら? 履歴書ずれた高橋さん(誰?)の間違い?


 仮の自分を想像するとき、いつも女性の姿が現れる。ここでは高橋さん(誰?)として、仮の自分が高橋ささらだとしたら、しっかりがっちり女性の私だ。お化粧とかも楽しんだりして自分の容姿に手間をかける。かわいいものに目がなくて、部屋の中にはぬいぐるみの類が。コーヒーよりも紅茶が好きで、3周したのちごぼう茶にたどり着く。ホットペッパービューティーPontaポイントを貯めまくっては、仕草やら言動を賢くさせたりして狩猟の目も磨きをかける。
 でも、常に漂う暗澹たる空気。目の奥の光が薄いのは、自分の問題なのか、外の世界の問題なのか。セクシュアルな失言へのかわし方の上手さが即ち女性のスマートさへと結びつき、柔らかい言葉使いを知るたびに外野から揶揄される。そうかそうかと険のある言葉を乱発させると、周りからは誰もいなくなる。容姿の美しさに努めている。内面は容姿の奥にある。内面なんて、あってないようなもの。でも本当は、心がすべてなのだ。


 高橋さんが隣の履歴書にあって、どうやらふたりとも内定を頂いたそうな。めでたしめでたし。
 ……という、平べったい昔話をでっちあげたところで、高橋さんがどのような人物か知らないが、なんだか、まあ、同じようなものでしょうか。

テーマ創作:今世紀のある休日

「マンデリンがお好きと伺いましたから」と喫茶の店主が話しかけてきた。

エプロン姿の彼の右手にはコーヒー豆の袋が。100グラム何百円で売られている、持ち帰り用のものだ。「これ、どうぞ」と差し出された手が温かい。

「え、いいんですか」と遠慮がちに返事したものの、心の中では浮足立った。マンデリンはいい味がする代わりに、値が高い。よくそれをちらちらと見つつも、いつもブレンドを無難に購入する私のことを、よく見てくれていたのだろうか。

おずおずと受け取ったものの、そこからは演技もなく、意気揚々と残りのコーヒーをすすり、早々に店を出た。

 

しかし豆かあ。豆だったかあ。あとで気がついたが、私の家にコーヒーミルはまだない。ハンドドリップに凝りはじめたはいいものの、私なりに一線を引いているつもりだった。コーヒーミルを家に導入してしまったが最後、もう引き返せない泥沼に片足を入れてしまう、そんな予感がして、なかなか踏み出せない。踏み出したいと思わない時点で、私がまだ安全圏に漂っている証になっているようで、安堵している節もあった。

 

たとえば、カレー。辛くなければ好物だから、たまに作ってはひとりうきうきに食すことはあれど、ルーはスーパーマーケットに陳列されているものを選んでいるし、カレー粉やスパイスにまで手を出してしまうのは、なんだか違う気がしている。

 

テレビ番組で、「男の料理」を披露する俳優のドヤ顔を散見するが、彼の自宅の調理棚に陳列されているカラフルなスパイスの小瓶を見るたびに、もやもやした気になるし、彼の作る「男の料理」を食べてみたいな、という思いからいよいよ遠ざかっていく。彼の家に訪問したとき、きっとカレーを振る舞われるだろう。ただ、私が食べているそれは、「カレーの体をした男のドヤ顔」で、口に含んだ瞬間から、私の負けです、あなたは男の中の男です、と認めさすためだ。

 

ああ、そんな男になりたくない。そんな人間になりたくない。だから、コーヒーミル、どうしようかなあ、やめとこかなあ、と立ち止まっていたなかでの、私の片手にはゴツゴツした質感の、マンデリンの袋だ。どうしようかなあ。

 

 

とりあえず、喉が渇いた。さっきコーヒー飲んだばかりだけれど、それとこれとは違う渇き。コンビニに入り、冷蔵庫に並べられたペットボトル飲料のブースへ。あ、そうだ。ここの会員になっていたわ。たしか、クーポンがあった。なんだっけ、緑茶か、烏龍茶か、フツーに天然水か。軟水だったらいいなあ。

 

スマホを開く。アプリを立ち上げる。100円のクーポンは、あろうことか、炭酸飲料だった。炭酸かー!飲まねー!そういう文化が私にねえー! がっかり。だが、160円が100円になることは大きな魅力だった。その割引に見合うゴネりでも落胆でもなかった。

 

仕方がない。これにしよう。レジに持っていく途中で手から滑り落ちて、これをそのままいけ好かない奴にプレゼントしてやろうか、と思いつく。そのための100円だったら喜んで支払ってやる。 バーコードを店員にかざし、無事にどうでもいい炭酸飲料は私のものになった。

 

と、その数秒後に、スマホが鳴動した。 「クーポン届きました!」 おうおうなんだ、次はどんな炭酸だ?コーラか?ペプシか?三ツ矢か? と凄まじく喧嘩腰になりつつ表示を見る。

 

カレールー。グリーンカレー。コンビニのプライベートブランドのもの。新商品らしい。 知らんがな、と、えっそっち?との二重の肩透かしに、またも着火の音がした。ああそうですか、買ってやるわ。

 

歩き始めて5、6分、同じ系列のコンビニが姿を現した。ふん。入ってやる。このコンビニのプライベートブランドは、味がよく評判がいい。かくいう私も、よく手にとっては気まぐれにもそもそと食している。で、そのなかから、グリーンカレー……。ほんと、辛いものは苦手なんだよなあ。でも、50円引きには敵わない。直線距離で入店からグリーンカレー、そしてレジへと導線を描く。 ……

 

 

そういえば、あの子、辛いものが好きとかインド料理が好きとか、東南アジアに旅したい、とか、そんなことを言っていた、かな?

 

 

無駄にふたつもコンビニのレジ袋を片手に、しかも重たいマンデリンまで持って、妙にアンバランスな心地を抱きながら、帰路につく。ああ面倒くせえ。面倒くせえなあ。Amazonでコーヒーミルを買うか。買っていいや。

 

あの子にLINEでもしよう。こんど、また会おうよ、いつ空いてる? 濃いコーヒーと辛口カレーでシャンパンファイトしない?

 

で、Amazonのアプリを開くでしょう? トップページにでかでかとあったのは、サガミオリジナルのうっすいうっすいアレ。ああ!バカじゃあねえの!

 

 

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テーマを頂きました。

「手間をかける」

「不規則性」

「コンビニ」